前年度の大会・秋季大会・例会

大会 | 秋季大会 | 例会


上代文学会-大会


新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、今年度大会(古事記学会との合同大会)も対面/オンライン併用で開催いたします。
詳細は4月上旬にお送りする大会案内でご確認下さい。皆様のご参加をお待ちしております。
なお、今後の感染状況によりましては、全面オンラインとなる場合もあります。HPで最新情報をご確認下さい。



2024年度(令和6年度) 古事記学会・上代文学会合同大会 大会案内
期  日 令和6年5月18日(土)、19日(日)、20日(月)
会  場 18日(土)ノートルダム清心女子大学
  岡山県岡山市北区伊福町2‐16‐9
  JR西日本「岡山駅」下車徒歩10分
19日(日)岡山大学津島キャンパス
  岡山県岡山市北区津島中3‐1‐1
  JR津山線「法界院」下車徒歩10分、JR西日本「岡山駅」西口よりバス15分
   (岡大東門または岡大西門バス停下車)
  ※土曜と日曜で会場が異なりますのでご注意下さい。
   また、会場校へのアクセスにつきましては、以下をご参照ください。

・ノートルダム清心女子大学:https://www.ndsu.ac.jp/about/access.html
・岡山大学津島キャンパス:
https://www.okayama-u.ac.jp/tp/access/access_4.html
日  程 ・当日の進行によって、時間が前後する場合がございます。
・古事記学会の理事会・総会の日程は、下記とは異なります。古事記学会の会員の方は、古事記学会からの案内も合わせてご確認ください。
― 18日(土) ―
理事会 (午前11時~11時45分)
講演会 (午後2時~5時)ノートルダム清心女子大学 ヨゼフホール3階 300教室

開会挨拶 大会運営校挨拶 講演会テーマ
「古代の吉備・播磨」
吉備津采女の歌 ―柿本人麻呂と「われ」と― 『播磨国風土記』と文化圏 ―山の道・海の道、そして吉備 吉備と倭王権
古事記学会奨励賞・上代文学会賞贈呈式 (午後5時~5時10分)
総会 (午後5時10分~5時50分)
懇親会 ノートルダム清心女子大学 学生食堂(午後6時~)
19日(日)
研究発表会 (午前10時~午後4時30分)岡山大学教育学部講義棟2階 5202教室
《午前の部》午前10時~

タカテラス・タカヒカル小攷
遣新羅使人らの旅程
―休 憩―

《午後の部》午後1時~

「霞たなびく『春』」 ~巻十による景物の形象~
史書に「諱」を記すこと ―『先代旧事本紀』の場合

―休 憩―(午後2時40分~2時50分)

『日本霊異記』における「天」の表現 ―天皇との関係から―

賀茂真淵と風土記 ―『文意考』所引『出雲国風土記』国引き詞章を中心に―

閉会挨拶


〇図書展示 5月18日(土)に、ノートルダム清心女子大学附属図書館特殊文庫資料展観(中央棟7階 特殊文庫閲覧室)を行います(午前9時30分~午後6時)。

20日(月)
臨地研究 ※特にご案内は致しません。

☆参加申込
4月22日(月)までに、以下からお申込み下さい。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdR-dYndnuV1Dni_PfR64vhQmrQnWhoISLNKzAVsuV4uE0-Cw/viewform?usp=sf_link
例年は大会参加費をいただいておりますが、今年度はハイブリッド型の開催形式であることから参加費の徴収を行わないことに致しました。
また、別途ご連絡の大会案内もご参照ください。案内に懇親会、お弁当用の払込用紙も同封しております。古事記学会からの大会案内に同封されておりますが、お振り込みはどちらか片方からのみでお願い致します。こちらも4月22日(月)までにお願いいたします。

大会研究発表要旨
タカテラス・タカヒカル小攷

 『萬葉集』には「日の皇子」にかかるものとして、「タカテラス」と「タカヒカル」という二つの枕詞がある。「タカテラス」は天皇や皇位継承者、「タカヒカル」は天武天皇系皇子に対して用いられるという使い分けがあり、「タカテラス」は柿本人麻呂創案の新しい枕詞であると捉えられている(橋本達雄「タカヒカル・タカテラス考」『万葉集の時空』等)。しかし、『古事記』における「タカヒカル」の用例と比較すると、『萬葉集』における「タカヒカル」の用法も、決して伝統的用法を踏襲したものではなく、人麻呂の時代に再創造されたものと見ることができる。
 「タカヒカル」は、天武天皇系皇子とはいえ、事績の少ない長皇子や弓削皇子にまで用いられている。「タカヒカル」は皇子たちの出自に深く変わるものであったと考えられる。すなわち、「タカヒカル」は母を皇女とする皇子に用いられ、氏族を母とする皇子たちと明確に差別化するものであった。但し、例外として、藤原氏出身の五百重娘を母とする新田部皇子に「タカヒカル」が用いられている。これは持統朝においても藤原鎌足の血筋を特別視する意識の表れと見られる。なお、皇女を母とする皇子の中では舎人皇子については「タカヒカル」が用いられていない。舎人皇子が有間皇子を含む阿倍倉梯麻呂の血筋を引くためと考えられる。
 天武天皇が后妃とした皇女は、すべて天智天皇の皇女である。『萬葉集』巻一・巻二、および巻三冒頭部が編纂されたと推測される元明朝において、「タカヒカル」は、天智天皇と天武天皇の両方の血筋を引く皇子を称える枕詞として機能し、首皇子(聖武天皇)への皇位継承を正当化するものとなったと見られる。また、首皇子の母が藤原宮子であることを踏まえれば、藤原氏出身の新田部皇子に「タカヒカル」を冠していたことも、それを一層強化するものであった。
 本発表は、『萬葉集』における〈歴史〉の構築をジェンダーの視点を導入して、父系だけでなく母方の血筋の重視に注目して、『萬葉集』の枕詞「タカヒカル」を捉え直すものである。





遣新羅使人らの旅程


 『萬葉集』巻十五・遣新羅使人歌群は、遣新羅使らの歌一四五首が概ね航程順に配列される歌群である。当歌群の研究史は、大濱厳比古が「実録風な創作(ドキユメンタリ・フイクシヨン)」(「巻十五」、『萬葉集大成』四)であると指摘して以来、歌群のもととなった資料の有無や実態が追求されがちであったが、近時、山崎健司が特定の編纂者の存在を想定せずに考察を進めたのは首肯される方向性である(「萬葉集の本文解釈学的研究」、『明治大学人文科学研究所紀要』八六)。
 伊藤博は本歌群について「心情的には『妹』を、時間的には『秋』をモチーフとする虚構体」と述べ、「望郷係恋や旅愁を過剰に示す後向きの歌ばかり」と指摘する(「万葉の歌物語」、『萬葉集の構造と成立』下)。しかし、歌群中の当地の美景を讃める歌からは妹や秋への志向はうかがえず、伊藤が全体を覆うとする「後ろ向き」の思いは読み取れないように思われる。安芸国から周防国航行中にそうした歌が目立つのは、難波出航後しばらく経ち、気持ちのうえで余裕が出てきて穏やかな航海ができるようになったことを表すのではないか。
 しかし、そうした穏やかな航海は佐婆海で逆風にあい漂流してしまうことで脆くも崩れさる。このトラブルを期に題詞には「悽惆」「悽愴」といった辛さを表す表現が目立つようになり、使人たちが旅愁を深めていく様子がうかがえる。そして、それは壱岐島で雪宅満を鬼病で亡くしてしまうことで決定的なものとなるのであった。このような読み方は山崎論にも示されているが、山崎論は考察の対象から冒頭の三十首あまりを除く方法をとる。しかし、今ある本歌群がどう読めるのかを考えるためには、一四五首を総体として捉える視点が必要だろう。
 本歌群全体を見渡すと、本歌群は使人らの浮き沈みある旅程を表しているものと認められ、そのように一四五首を構成することで、遣外使が任地に向かう間に何を見、いかなる思いを抱いたのかを追体験できる作品として企図されたのである。





「霞たなびく『春』」~巻十による景物の形象~


 『万葉集』巻二十は「十二月十八日於大監物三形王之宅宴歌三首」と題して四四八八~四四九〇の三首を載せるが、それぞれの歌は明日に迎える年内立春において「鶯鳴く」或いは「霞む」「春の景」が実現せられる確信を歌う。
 三首の歌群より一首隔てて置かれる「廿三日於治部少輔大原今城真人之宅宴歌一首(四四九二)」はその年内立春を過ぎた日付が提示され、その歌でも同様に「霞たなびく」ことが「春立ちぬ」という季節の把握の根拠とされている。「立春」を経たからには「春」でなければならず、「春」である以上「霞たなびく」ような確定的な「春の景」が現れていなければならないという観念の先行がこのような表現と題詞の現れようを可能にしている。巻二十は、そうした観念の結びつきが前提された上で読むことを求めるありようをしているといってよい。
 しかし、巻三「夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首」に続く「悲緒未息更作歌五首」中四七三番歌では
 佐保山にたなびく霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし(四七三)
 など秋に「たなびく霞」が見え、巻八「秋雑歌」には憶良の
 霞立つ天の川原に君待つとい行き帰るに裳の裾濡れぬ(一五二八)
 もあり、「霞立つ、霞たなびく」ことが『万葉集』テキストを通じて「春の景物」として確定的に現れているとは言いがたい。
 しかるに、巻二十が確定的な「春の景」として「霞」を扱うことのできる理由はどこにあるのであろうか。これを、同時代的な景物をとらえる感覚の問題に帰してしまうと、四七三の家持歌のありようなどを説明できなくなってしまう。あくまで『万葉集』テキストの問題として考える必要があろう。
 本論では、巻十「春雑歌」内の歌の配列によって『万葉集』テキスト内に「春の景物、春の到来を確信させる景物」としての「霞たなびく」景が立ち上げられ、それを前提として以後の詠物を捉えていく読解を『万葉集』テキストが要求しているものと捉えることで、巻二十においても同様の前提が読解上要求されていることを説明する。その際に、西澤一光による『万葉集』の集蔵体論を参照しながら、巻七、八、九に続く巻十の位置を捉えたい。




史書に「諱」を記すこと―『先代旧事本紀』の場合


 『先代旧事本紀』の本文は、『日本書紀』等の先行書のテクストを利用して構築されている。各天皇紀冒頭の記述が詳しく形式が統一されているのが特徴のひとつで、時には天皇の諱や在位年数など、『書紀』を超える情報が記載されることすらある。しかしながら、これらの情報の確かさには大いに問題があり、特に天皇紀冒頭に挙げられる「諱」の性質は他書と大いに異なるため、一考の余地がある。
 『旧事本紀』は安寧天皇・懿徳天皇・神功皇后を除くすべての天皇条の冒頭で天皇の「諱」を挙げるが、その殆どは「諱御間城入彦五十瓊殖尊」のごとく、『書紀』に記載された天皇の尊号に手を加えたものである。「諱」とは一般に死者の生前の名または貴人の実名をさすものであり、このように尊号を「諱」とする例は上代文献中に類を見ない。これについては、平安期に「諱」の拡大使用があったとの指摘が夙になされているが、理由はそれだけではないと考える。『旧事本紀』における『書紀』所収資料の扱われ方などをみても、この「諱」は編纂の都合上強いて操作が行われた結果の産物であると考えられる。
 そもそも『書紀』は殆どの天皇条において天皇の実名を「諱」として提示することをしない。しかし、『続日本紀』以降の六国史や『日本紀略』をみると、八世紀末以降、徐々に各天皇紀冒頭に「諱」として天皇の実名が明記されるようになっている。『旧事本紀』はこの潮流を受け、各天皇条冒頭に「諱」を記す形式たらんとしたために、『書紀』に記載のない天皇の「諱」を案出する必要に迫られたのではないだろうか。十世紀以降の成立とみられる『聖徳太子伝暦』にも同様に尊号を「諱」として挙げる例がみられることから、史書に「諱」を記す傾向および『旧事本紀』の手法が影響を与えた可能性が考えられる。
 記述内容の不確かさについて、たとえば『旧事本紀』の自注をみると、注が付されていること自体が重視され、注内容の矛盾は放置されているような箇所も散見される。大胆な「諱」の案出のさまを考え合わせても、『旧事本紀』においては内容の確実性や整合性より、本文を所定の形式に統一することの必要性が重大視されていたと考えることができる。


『日本霊異記』における「天」の表現——天皇との関係から——


 『日本国現報善悪霊異記』(以下、『日本霊異記』)には「天」に関連する語が多く用いられているが、その位置づけは一様ではない。
 小泉道は上巻序文における聖武天皇の大仏造立と陸奥国の黄金出土の逸話に「天」や「地」の語が用いられることを挙げ、これらが祥瑞思想を踏まえた表現であると指摘した。また、石井公成は人物の善行や功徳に感応する例から、「天」が本書全体の構造と密接に関わることを述べ、八重樫直比古は大神高市万侶の感応譚(上巻第二十五縁)に見える「諸天」の語が、義浄訳『金光明最勝王経』に由来するものと示唆する。これまでは『日本霊異記』における瑞祥の表現方法、説話の思想的背景から指摘がなされてきた。
 注目すべきは、史実と関わる説話において「天」や「地」の語が重要な役割を持つことである。例えば、下巻第三十八縁の聖武天皇の遺詔では、天皇の遺言に従わないと「天神地祇」が災を下すとある。また、上巻第五縁には、排仏派の中心であった物部弓削守屋の行為を「天」や「地」が憎むという表現が見える。物部弓削守屋は謀反を起こして敗死するが、説話のなかでは、天地の神々から誅殺されたかのように語られている。結果として天皇が直接的に手を下す行為であっても、『日本霊異記』は「天」と天皇との結びつきを表現しているのである。このような例を踏まえると、「天」に関連する語は祥瑞思想の表現という指摘だけでは捉えきれない問題があるのではないか。
 そこで本発表は、『日本霊異記』内の「天」に関連する語を整理し、その分布と使用傾向を把握する。なかでも謀反など史実に関わる説話を中心に、『日本書紀』や『続日本紀』を踏まえて分析する。史書の使用傾向を踏まえると、『日本霊異記』の「天」に関連する語は天皇の善政を保証し、謀反人への誅殺の正当性を揺るぎないものとする効果を持つ用語と考えられるのである。聖武天皇の大仏造立や遺詔において「天」に関連する語が記されるのはこのためではないか。以上のことから、本発表では『日本霊異記』が「天」と天皇とを結びつけようとする表現方法の一端を指摘したい。



賀茂真淵と風土記―『文意考』所引『出雲国風土記』国引き詞章を中心に―


 賀茂真淵『文意考』は、いわゆる「五意考」の一つ、文章論を中心とした著作で、総論および文例から構成され、流布本と広本がある。そのうち広本に収載される文例に、「くになし(国作)」として掲げられる『出雲国風土記』意宇郡・郡名起源―いわゆる国引き詞章―がある。同記事は、風土記についてまとまった著述のない真淵の風土記研究を考える上で、注目すべきものである。第一に、真淵が所持していた『出雲国風土記』(以下、『出雲』とする)写本の概要が窺える点である。真淵が『出雲』写本を有していたことは、『祝詞考』『祝詞解』などの著作における引用や、狩谷棭斎旧蔵本『出雲』の奥書などから窺えるが、写本自体は現存しない。そのような中、この『文意考』所引国引き詞章や『祝詞考』等の引用は、真淵所蔵『出雲』写本の概要を推定しうるものといえる。第二に、真淵による国引き詞章の訓読が示されているが、その訓みには、真淵の師である荷田春満の『出雲風土記考』との関連が窺えるとともに、両者の国引き詞章をめぐる解釈の相違が浮かび上がってくることである。そして「上つ代にこそことばのあや(文)あざやかにしてみやびたり」(『文意考』広本・総論)と説く真淵は、国引き詞章について「風土記は、其国郡に仰こと有て、上つ代より伝れる古事をはじめて、時にあることをもしるさせ給へれば、此類の文はいとも古き代より伝はりしこと也」(『文意考』同条)と評するが、これは真淵同様、風土記に関する著作のない本居宣長が、国引き詞章を「其文いとも〳〵上ツ代の雅言なり、心留めて読べし」(『古事記伝』)と評し、「出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文」(『玉勝間』)として、風土記の中で唯一、注釈を為したことに連なるものである。
 本発表では、『文意考』所引『出雲国風土記』国引き詞章をてがかりに、真淵の風土記研究や風土記観を明らかにする。





上代文学会-秋季大会


上代文学会秋季大会シンポジウム御案内 【ハイブリッド開催】参加費無料
日  時 二〇二四(令和六)年十一月九日(土) 午後一時~五時
会  場 駒澤大学三号館(種月館)二〇五教室

Zoomを使用したオンライン参加もできます。オンライン参加を希望される会員の方は案内状の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。
 対面でご参加の方はお申し込み不要です。当日会場で発表資料をお渡しいたします。
※今後のコロナ感染状況によりましては、全面オンラインとなる場合もあります。HPで最新情報をご確認下さい。
テ ー マ 神話のことば・歌のことば――音やイメージの類同をめぐって――

 神話のことばと歌のことばには共通するコードがあるように思われる。それは類同する音やイメージが表現生成の導因となる、ということである。たとえば、西郷信綱は『古事記』において水蛭子が葦船で流されるのは「不良」の子、つまり悪しき子であるからだとした(『古事記注釈』)。アシという音(シニフィアン)を介して「不良→アシ→葦」という連鎖が生成し、それが不良の子を葦船で流すというストーリー展開として表れたというのである。これは歌で言えば、「アシ」が掛詞として一首の眼目になりつつ歌ができるのと同じである(そのような歌が存在するかどうかはわからないが)。つまり、二つの語の音が同じであることは神話でも歌でも表現を生成させる導因となる。そのような事例は多く指摘できるだろう。
 また、鈴木日出男は、『万葉集』巻4・502番歌・柿本人麻呂「夏野行く 牡鹿の角の 束の間も 妹が心を 忘れて思へや」について、上二句の序詞と下三句の本旨をつなぐ掛詞「つか」(指をひろげた時の人差し指と小指の間の短い長さ/時間の短さ)を導く「夏野行く 牡鹿」のイメージは詠歌主体の「重苦しい恋の情を鮮明な映像」をかたどっており、そこに一首の眼目があると評した(「万葉和歌の心物対応構造」『古代和歌史論』)。こういうイメージの類同が神話の表現生成の導因になっている例も多くあるだろう。たとえば、佐佐木隆は三輪山型神話には「細くて長いものが狭い穴を貫く」というイメージがくり返されることを指摘している(『蛇神をめぐる伝承』)。
 このように神話と歌に共通する表現のコードがあるという事実は文学の歴史を考える、それもできるだけ普遍的に考える際に重要なポイントではないだろうか。本シンポジウムでは、このような問題意識に基づき、神話のことばと歌のことばの共通するコードについて考えたい。

【参考文献】 猪股ときわ『異類になる』(森話社、二〇一六年) 奥田俊博『古代日本における文字表現の展開』(塙書房、二〇一六年)、『風土記文字表現研究』(汲古書院、二〇二四年) 尤海燕『古今和歌集と礼楽思想』(勉誠出版、二〇一三年年)、「『万葉集』四二九二番歌考――『崔禹錫食経」の利用を手がかりに――』(『古代文学』第六三号、二〇二四年)

パネリスト及び講演題目 神話的思考を喚起する歌―源氏物語と古事記と
東京都立大学教授 猪股 ときわ
『古事記』神統譜の文字表現
九州女子大学教授 奥田 俊博
『古事記』の「言向」と「礼」
華東師範大学教授 尤 海燕
(司会 和光大学教授 津田 博幸)
上代文学会事務局
〒162-8644 東京都新宿区戸山一―二四―一
早稲田大学 文学学術院 二五〇四研究室内
上 代 文 学 会
http://jodaibungakukai.org/


発表要旨

神話的思考を喚起する歌―源氏物語と古事記と
東京都立大学教授 猪股 ときわ

 『源氏物語』「帚木」の巻末、光源氏と女は「ははき木の心を知らで 園原の道にあやなくまどひぬるかな」「数ならぬ伏屋に生ふる名のうさに あるにもあらず消ゆるははき木」という贈答をする。信濃国の歌枕「園原」「伏屋」に固有な植物「ははき木」の、「遠くからみえるが、近寄ると消える」という属性を女の行動と重ねる歌によって、女は「帚木」と呼ぶべき女となるのである。女が国に固有な植物の女と化すとき、地の文や会話にちりばめられてきた風俗歌や催馬楽ともあいまって、男(光源氏)と女(帚木)との間に、「道」を行き国を来訪する「おほきみ」と国の女という神話的な関係が呼び込まれ、歌の贈答をする際の女は、光源氏との圧倒的な身分差にもかかわらず、敬語を用いてかたられることになる。
 『古事記』においても、応神天皇は日向国から「喚し上」げた諸県君の女、髪長比売を「…わがゆくみちの かぐはし はなたちばなは ほつえは…なかつえの ほつもり あからをとめを いざささば よらしな」と歌う。髪長比売もこの饗宴の場においては、天皇の命で一方的に召し上げられた女ではなく、道行くヲトコが偶然に出会った土地のヲトメとなろう。
 宇陀のオトウカシが、神武天皇と御軍に「大饗」を献上した際の「うだの たかきに しぎわなはる…」の歌の場合、エウカシを「斬り散」り、宇陀の地が「宇陀の血原」となるまでの出来事を、宇陀における罠猟と、その獲物の分配に見立てる。地の文のかたっていた圧倒的な非対称―御軍を従えた神武側と軍を聚めることができなかったエウカシーとは異なる位相がここに開かれることになろう。饗宴の場に、罠猟における獲物と狩人との関係性、すなわち殺す側と殺される側とが対称的でありうるという神話的次元が、生起するのである。
 『源氏物語』においても『古事記』においても、歌のことばは、地の文では実現しえない二者間の対称性をテキストの中に呼び込み、神話的思考を喚起する装置として働いているのではないだろうか。



『古事記』神統譜の文字表現
九州女子大学教授 奥田 俊博

 『古事記』に見える神名の表記については、借訓字と看做される用字を中心に神名の用字と意味との関連について検討を行ったことがある。その検討の結果、借訓字と看做される用字が表意性を有する場合、(ア)神名の名義そのものに関連する表記(思金神の「金」など)、(イ)列挙される神名と関連する表記(青沼馬沼押比売の「馬」など)、(ウ)神話の内容と関連する表記(「少名毘古那神」の「名」など)、の三つの類型を抽出できると考えた(拙著『古代日本における文字表現の展開』第二編第一章第一節「『古事記』の神名と文字表現」、塙書房、二〇一六年、初出は二〇〇三年)。この時の関心の中心は、神名の用字とその用字が有する意味との関係、および、対象となる用例の類型化であった。対象となる用例の類型化を、書き手と読み手の関係に引き寄せて捉え直すと、この類型化の追究は、書き手と読み手における文字表現の伝達の理解に資するような、表記レベルでの基盤の追究であったと言える。
 もちろん、上記(ア)~(ウ)の類型に属する各用例は均一的なものではなく、神話の文脈において具体的・個別的な様相を呈するものである。それは、用例として掲げた神々が、『古事記』の神話において具体的・個別的な役割を担っていることと平行的である。
 神々が神話の文脈において具体的・個別的な役割を担っている点に注意してみたとき、神名の文字表現が神話の文脈にどのように関わっているのか、見えてくるものがあるのではなかろうか。そこで、今回の発表では、上記の拙著での検討・考察を踏まえて、『古事記』の神統譜に見える神名の表記が、他の神名の表記とどのように関係するのか、また、神名の表記が『古事記』の神統譜の文脈にどのように関係するのか、という点について検討を行いたい。さらに、神統譜において列挙される神名と神統譜の文脈との関係を検討することによって、神統譜の伝達の基盤が有する文化的側面の一端を明らかにしたい。



『古事記』の「言向」と「礼」
華東師範大学教授 尤 海燕

 本発表は「礼」の観点から『古事記』の「言向」の意味を考えるものである。まず、国土生成と統治王化の「要所」に持ち込まれる「礼」の重要さを確認してから、「言向」の対象問題を考察し、それを「荒ぶる神」に絞る。「まつろはぬ人」(不伏/不服の人)は「無礼者」(もとより「礼」がない者ではなく、「礼」を身につけたはずの人が秩序に背く反乱者)として武力鎮圧されるのに対し、「荒ぶる神」は「礼」(王化)が及ぼされていない(始原的エネルギーがあふれる)ため、その荒ぶる神の世界(葦原中国など)に対して「言向」によって「礼」を授けられることになる。「不伏無礼」と異なり、「荒ぶる」は「邪心」による乱暴または意図的な反乱ではなく、未開化の状態、つまり、天皇側の「言」が使えず「礼」が備わっていない(未染王化、高天原/天照大御神の秩序に組み込まれてない)、原始的欲望に駆られる荒々しさを指す。
 そして、荒ぶる神が跳梁・跋扈する「混沌・無秩序」の地上世界は、「モノ」(そのシニフィアンとして様々な「物」)の犇く世界であることを指摘し、『礼記』「楽記」を代表とした「人」と「物」の関係論理(人の欲望をそそる「物」の勢いが勝ると、人が「物」になるというほど、「物」が人を同化させるような激しい性質を持つのである)によって、『古事記』「言向」の論理を掘り下げる。「物」を宥め、慰め和らげることを通して、より根源的なところに「礼」を授けることになり、「万物」に「言向」した効果は、万物が天つ神(天皇)に服従し、天神の秩序に加わり、調和した自然になると考えられる。
 最後は「物」へ「言向」する意味について考える。それを『風土記』『万葉集』の国見、「物色」の源流を辿りながら、「心物対応構造」論にたよって、『古今集』序の世界へ繋げていくことを目指す。




上代文学会秋季大会 研究発表会ご案内 【ハイブリッド開催】参加費無料
日  時 二〇二四(令和六)年十一月十日(日)午後二時~四時十五分
会  場 日本大学文理学部 百周年記念館 二階 国際会議場

ZOOMを使用したオンラインでのご参加も可能ですので、遠方の会員の皆様もぜひご参加ください。
オンライン参加を希望される会員の方は、案内状の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。
後日、ZOOMのURL、発表資料などをメールでお送りいたします。
対面でご参加の方は、事前お申し込み不要です。当日会場で、発表資料をお渡しいたします。

研究発表会終了後(午後四時半ごろから)、常任理事会を対面・オンラインのハイブリッド形式で開催します。
詳細は後日ご連絡いたします。
研究発表 飯豊皇女の「与夫初交」記事に関する一考察
大熊かのこ(お茶の水女子大学博士後期課程)
(司会 山田純(相模女子大学教授))
『古事記』における宇遅能和紀郎子の造形―『論語』の伝来による新たな天皇像との関係において―
ハッタヤーナン・ナパット(早稲田大学博士後期課程)
(司会 飯泉健司(埼玉大学教授))
上代文学会事務局
〒 162-8644 東京都新宿区戸山一―二四―一
早稲田大学文学学術院二五〇四研究室内


発表要旨

飯豊皇女の「与夫初交」記事に関する一考察
大熊 かのこ

  『日本書紀』における、飯豊皇女の記事は系譜を除けばわずか二箇所(清寧三年七月・顕宗即位前紀)に過ぎない。そして前者の記事は飯豊が「与夫初交」したが、それきり「終不願交於男」であったと記すものであり、多くの点で不審であるとされてきた。
 飯豊皇女は皇統途絶の危機に都に存した有力皇族の一人であり、即位の可能性を十分に有しうる人物である。『古事記』では、飯豊が実際に「日継知所之王」とされていることからもそれが知れる。そのため本発表では飯豊が条件の上では女帝として即位しうる人物であったと確認した上で、以下の三点からその即位の可能性を『日本書紀』が否定し、飯豊の価値を損なわせていると考える。
①当該記事を子の誕生に繋がらない一夜孕みの変形譚と読むことで、飯豊皇女の資質の問題が現前化する。神代紀における一夜孕みの記述からは、一夜孕みを可能にするのは天神の霊異であるということが読み取れるが、こうした霊異を天神の血統に連なるはずの飯豊が発揮できていないことが示される。
②『日本書紀』中において、系譜記事以外で子を残さない天皇・皇后が描かれる場合、「恨」「憂慮」等の語が用いられて当人のそうした現状が望ましくないという認識が示されたり、その対応として子代・名代の設置が行われたりという記述が存するが、飯豊の場合そうした記述はなく、「不願交」の理由も「安可異」と記されるのみである。
③神代紀において神々や国々の誕生は陰陽(乾坤)の交わりという形で示されている。「乾坤之道」「陰陽之理」等の語によって表わされるそれは、儒教等の思想と混ざりつつも『日本書紀』全体を貫くロジックとして存在している。特に清寧・顕宗・仁賢紀における皇位継承の文脈で儒教・陰陽論が重視されていることに鑑みれば、そうした「道」に違う飯豊の精神性はその即位の正当性を損なうものでしかない。
 したがって、「与夫初交」記事は、その皇位継承者としての正当性を損なわせ、飯豊の価値を貶める記事として、飯豊を顕彰する「臨朝秉制」記事と表裏一体に機能している。



『古事記』における宇遅能和紀郎子の造形―『論語』の伝来による新たな天皇像との関係において―
ハッタヤーナン・ナパット

 宇遅能和紀郎子は応神天皇と宮主矢河枝比賣との間に生まれた御子であり、三皇子分掌譚において、天皇から「所知天津日継也」と命じられる。それに続いて天皇と宮主矢河枝比賣との婚姻譚が配置され、そこで宇遅能和紀郎子の誕生が記述される。この婚姻譚について、西宮一民氏は「宇遅能和紀郎子が聖なる御子であって、皇位継承者にふさわしいことを示す布石ではないか」と指摘しており、当を得た見解である。ただし、臣下出自の生母を持つ宇遅能和紀郎子は大雀命より下位と都倉義孝氏や矢嶋泉氏によって指摘されているが、天下を互譲するためには両者の間に並立の関係が必要だと思われる。すなわち、宇遅能和紀郎子の誕生を記述するのは、彼の立場を高め、大雀命と天下を譲り合う対等な相手として造形するためではなかろうか。この造形は天下相譲譚への布石にもなると考えることができよう。
 また、宇遅能和紀郎子の夭逝に関して、『古事記』は「崩」という天皇専用表現を用いている。『古事記』は、なぜ皇位に即かない宇遅能和紀郎子を天皇に準じた表現で描き、敢えて「天津日継」を継承する資格者とした上で夭逝させたのだろうか。この人物を通して何を語ろうとしたのだろうか。これが重要な問題である。
 本発表では、応神朝における『論語』の伝来に注目して、宇遅能和紀郎子が即位しない合理的な理由が儒教的な徳目に関わることを指摘する。儒教の観点から見れば宇遅能和紀郎子は「孝悌」の徳目に従っていないように見える。すなわち、兄に皇位を譲るのは、「悌」を表す行為ではあるが、それと同時に、父である応神天皇の勅に逆らい即位を拒むのは「孝」という徳目に適わないと言える。『古事記』は、宇遅能和紀郎子を皇位継承の有資格者として造形しつつ、儒教的徳目に必ずしも適合しない性格の持ち主であることを示し、より適合した大雀命を称揚することで、『論語』の伝来を受けた新たな天皇像の確立を示したのではないかと考える。




上代文学会-例会


二〇二四年度(令和六年度) 上代文学会 七月例会 ご案内
日  時 二〇二四年(令和六年)七月二〇(土)午後二時~午後三時三〇分
会  場 Zoomによるオンライン開催
参加を希望される会員の方は、案内状に記載の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。折り返しURL等、参加に必要な情報を返信致します。遠方の会員の皆様もぜひご参加ください。
研究発表 『古事記』四番歌「ヤマトノヒトモトススキ」の解釈 ○研究発表終了後、常任理事会(Zoomによるオンライン開催)を開催します。

発表要旨
『古事記』四番歌「ヤマトノヒトモトススキ」の解釈

 『古事記』上巻・神語の中で八千矛神(大国主神)が歌った歌(『古事記』四番歌)の中に「夜麻登能比登母登湏〃岐(ヤマトノヒトモトススキ)」という語句が見える。この「ヤマト」をめぐっては、普通名詞の「山本」「山処」ととる説、散文部に「倭国」の語が見えることから、地名「倭(大和)」を指すとみる説の他、「配偶者を失った人」の意ととる一案(新編日本古典文学全集・頭注)などもあり、定まっていない。「山本」「山処」説の難点は、「ヤマモト」を縮めて「ヤマト」と言った確例が見られないこと、「登」は乙類であるのに対し、「処」が甲類であることなどにある。また、一方の地名「倭」説の難点は、「ヤマトノヒトモトススキ」が出雲に残される妻のスセリビメの姿を喩えたものであり、地名「倭」とは関わらないという点にある。

 『古事記』の歌の中に見られる「ヤマト」は皆「夜麻登」と表記され、その示す範囲に相違がある可能性を孕みつつも、いずれも地名のヤマトを指している。それゆえ、本発表では四番歌の「ヤマト」を地名「倭」と考える。その場合、当然ながら散文部の「倭国に上り坐さむとして」との関係性を検討する必要がある。「倭国に上り坐さむ」としつつも、結局は出かけずに出雲に留まったと描くこの神話の展開は、大国主神が、後の天皇支配の中心地であるヤマトのみは領有出来なかったことを主張する『古事記』編者の意図を示すものであるとの理解があり、発表者もこれまで同様に考えてきた。しかし、後の大国主神の国作り神話、及び中巻・神武記の東征、崇神記の祟り神祭祀も併せてみたときに、上巻の神話世界においてヤマトが天皇支配の中心地として先んじて別格の扱いを受けていたとは考えがたいのではないか。むしろ八千矛神(大国主神)が領有する「ヤシマグニ」の中に「倭」も含まれることを積極的に示すのがこの歌と散文部の意図するところであったのではないか、と結論付ける。




二〇二四年度(令和六年度)上代文学会一月例会 ご案内
日  時 二〇二五年(令和七年)一月十一日(土)午後二時~午後四時三〇分
会  場 Zoomによるオンライン開催
参加を希望される会員の方は、案内状に記載の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。折り返しURL等、参加に必要な情報を返信致します。遠方の会員の皆様もぜひご参加ください。
研究発表 雲隠る雁 ―『萬葉集』におけるカクルの認識方法から― 医療表象文化からみる黄泉国神話の位置づけ ○研究発表会終了後、常任理事会をオンラインで開催します。

発表要旨
雲隠る雁 ―『萬葉集』におけるカクルの認識方法から―

 『萬葉集』では、雲に隠れて見えない雁を「雲隠ル」と表現する(「雲隠る雁」)。最も古い「雲隠る雁」は、人麻呂歌集歌「献二弓削皇子一歌三首」の一七〇三番歌に見える。この一七〇三番歌の「雲隠ル」は、それまでのカクルと違い、聴覚を用いて隠れる対象の存在を認識する。
 従来の先行研究は、見るという態度の表れとしてカクルを捉えるが、見ることとカクルの関係についての議論は十分ではなく、聴覚とカクルの関係についても考察されていない。本発表は、視覚に関わるカクルの相(アスペクト)を分析することで、見ることとカクルの関係、さらに聴覚とカクルの関係を明らかにし、一七〇三番歌の「雲隠る雁」の認識方法とその認識がどのように受容されたかを述べる。
 内田賢德氏(「見えないものの歌」)が「視野にあったものが見えない領域へ消えること」と述べるように、変化を伴う動詞としてカクルは理解される。アスペクトの分析からも、①ある主体がカクル存在を視覚にて認識する(見ること)、②具体物が見ることを遮り、対象を視認することが困難になる、③完全に対象を視認できないがそれでも見ようとする、という三段階の変化を経てカクルは成立することが分かる。すでに隠れている状態を表すカクルの例もあるが、変化と状態を表すカクルのどちらにおいても、以前に視認した対象を隠れて見えない内側に想像する点は共通している。
 一方で聴覚を用いた「カクル」では、聴覚により視認できない対象の存在を「認識」する。カクルの①段階目を聴覚を用いて実行する。視覚を聴覚に転化した表現といえるだろう。
 この聴覚を用いた「カクル」は「雲隠る雁」の歌に集中する。「雁が音」のみ聞こえ、視認したくとも視認できない雁をまるで見るかのように「カクル」と表現するのである。一七〇三番歌の「雲隠る雁」から始まる聴覚をもって見ようとする認識方法は、大伴家持の「見帰雁歌二首」にも受け継がれている。

医療表象文化からみる黄泉国神話の位置づけ

 黄泉国については、横穴式古墳の葬制の反映(『古事記新講』『古事記全註釈』等)、モガリの説話化(『古事記注釈』)、地下世界説(『古事記伝』以来の定説に対する視点)、平面的関係としての「葦原中国―黄泉国」説(松村武雄『日本神話の研究』)、山中他界説(井手至「所謂遠称の指示語ヲチ・ヲトの性格」)、「葦原中国」に帰着する「黄泉国」の世界像(大林太良『シンポジウム日本の神話』、神野志隆光『古事記の世界観』)などと解される。本発表では、『古事記』黄泉国神話に描かれる植物の医療表象から、黄泉国の位置づけについて考えていく。
 黄泉国神話では、イザナキが黄泉国から逃走する際に投げるものとして、エビカヅラ・タカムナ・モモが登場する。中尾瑞樹氏は、『古事記』黄泉国神話のこの三つの植物について、『大同類聚方』の用例をふまえて薬草であると同定し、黄泉国に薬草が生えることと、中国の「黄泉」との関係から、三つの植物における古代的薬理を示すことで、黄泉国を「医薬の国」と解した(中尾瑞樹「『古事記』黄泉国神話の医療人文学的考察」水門の会神戸例会、2017他)。
 『古事記』では、三つの植物は同列ではなく、「エビカヅラ・タカムナ」と「モモ」の二つに分類することができる。すなわち、エビカヅラとタカムナは、イザナキの身体性から「投棄」されることで「生」るものとして存在し、その生成には、イザナキの主体性が強調される。この違いをふまえて、医書などからエビカヅラとタカムナの本草的側面をとらえると、『神農本草経』に、エビカヅラは「久食、軽身、不老、延年」、タカムナは「通神明、軽身益気」とあり、エビカヅラとタカムナには仙術につながる「軽身」の表現がみえる。このことから黄泉国神話を読むと、医薬を投じられたことによりヨモツシコメたちはパワーアップしたのであり、黄泉国が活性化することで、高天原の三神を生み出すイザナキの力が蓄えられたと解することができる。