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上代文学会-大会


新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、今年度大会も対面/オンライン併用で開催いたします。
詳細は、別途お送りする大会案内でご確認下さい。皆様のご参加をお待ちしております。
なお、今後の感染状況によりましては、全面オンラインとなる場合もあります。
HPで最新情報をご確認下さい。



2023年度(令和5年度) 大会案内
期  日 令和5年5月20日(土)、21日(日)、22日(月)
会  場 20日(土)フェリス女学院大学フェリスホール
神奈川県横浜市中区山手町37
JR京浜東北(根岸)線「石川町駅」みなとみらい線「元町・中華街駅」
下車徒歩各10分
21日(日)鶴見大学会館
神奈川県横浜市鶴見区豊岡町3‐18
JR京浜東北線・鶴見線「鶴見駅」下車徒歩二分、
京浜急行線「京急鶴見駅」下車徒歩五分
※土曜と日曜で会場が異なりますのでご注意下さい。
日  程 ※当日の進行によって、時間が前後する場合がございます。
― 20日(土) ―
理事会 (午後0時30分~1時30分)
講演会 (午後2時~4時30分)

学会挨拶 大会運営校挨拶 「琴歌譜」発見百年によせて 季節の到来―万葉から新古今へ―
上代文学会賞贈呈式 (午後4時30分~4時40分)
総会 (午後4時40分~5時30分)
懇親会 山手十番館(午後6時~)
21日(日)
研究発表会 (午前10時~午後4時30分)
《午前の部》午前10時~

前采女の「風流」 ―『万葉集』巻十六・三八〇七左注の検討を通して
仙覚『萬葉集註釈』所引「多氏古事記」の位置
―休 憩―

《午後の部》午後一時~

『住吉大社神代記』の垂仁天皇記事―景行・成務・仲哀を含まない天皇系譜―
『日本霊異記』上巻第十縁考

―休 憩―(午後2時40分~3時)

「喩族歌」長歌末尾の表現

『万葉集』における「喚辞」
22日(月)
臨地研修 ※特にご案内は致しません。

☆大会申し込みなどについては、別途ご連絡の大会案内をご参照ください。

☆参加申込
・次からお申込み下さい。例年は大会参加費をいただいておりますが、
今年度はハイブリッド型の開催形式であることから参加費の徴収を行わないことに致しました。
   https://forms.gle/CvAW1AdFesLsWtsT9

大会研究発表要旨
前采女の「風流」 ―『万葉集』巻十六・三八〇七左注の検討を通して

 『万葉集』巻十六・三八〇七歌左注によれば、「風流」たる前采女が左手に觴を捧げ、右手に水を持ち、怒れる葛城王の膝を撃ちつつ安積香山の歌を詠じたという。先行研究では前采女の「風流」を都会風に解するのが一般的であり、「洗練」(新大系)、「教養」(新潮集成)といった形容の為されることもある。しかし、「撃膝」という性的な所作に着目するならば、「洗練」「教養」といった形容は適切さを欠くのではないか。また、都市の作法を鄙におし拡げる礼楽的秩序の執行者として前采女を捉える考え方(池田三枝子「風流侍従長田王考」『上代文学』六九)も、同様の見地からは首肯しがたい。儒教道徳からすれば男女間の過剰な親密さは認められるものではないからである。
 それでは、前采女のわざを所謂「好色風流」の系統に位置せしめるべきか。巻五「松浦河に遊ぶ序」や巻六・一〇一六などは仙女と官人との高踏的な交歓を題材とするが、性的内容に踏み込むことについては抑制的である。それに対し前采女は仙女に擬せられる訳でもなく、また「撃膝」というあからさまに性的なしぐさが語られもする。前采女の「風流」は神仙思想に彩られた「好色風流」とも異なると言わざるをえない。
 このように、日本において受容された風流の二つの流れ(儒家的風流と神仙的風流)とは一線を画する前采女のわざが「風流」とされるのは何故か。それは「風流」の本質とかかわるだろう。中国における「風流」は儒家的道徳の感化力や礼法を顧みない闊達さ・性的な放縦さなどを指して用いられており、排反する二つの志向性を包み込むが、それは「風流」が「凡俗からの傑出」を本質とするからだ。「風流」は可変的な「俗」に対応して変容する動態なのである。
 かかる「風流」の本質を踏まえ、発表者は礼的秩序という権威=「俗」と対峙する「風流」として前采女の振る舞いを捉える。「風流」は権威と結びつくとき、それ自体が通俗に堕しかねないというジレンマを必然的に抱え込むはずだ。前采女のわざは、聖武朝を盛期として権威化した儒家的風流を相対化するもう一つの「風流」だったのである。




仙覚『萬葉集註釈』所引「多氏古事記」の位置


 「多氏古事記」は仙覚『萬葉集註釈』(仙覚抄)と『釈日本紀』に一例ずつ引用が見られる逸書である。現存『古事記』の内容・文体と異なることから、『古事記』の成立と関わって論じられてきた。
  仙覚抄では『萬葉集』巻第一の一七番歌において「味酒三輪乃山」の語義解釈を行うなかで引用されている。『土左国風土記』に続けて「多氏古事記」が引用されていることから、古事記研究では、山上伊豆母や大和岩雄が古風土記に既に引用されていたと解釈しており、武田祐吉や徳田浄、上田正昭、西宮一民なども、風土記所引の「多氏古事記」として説明する。これに対して、風土記研究では、狩谷棭斎の『採輯諸国風土記』が既に風土記の本文ではないとしており、現在も『土左国風土記』とは切り離して捉えられている。ただし、いずれもその根拠を示しているものは見当たらない。
  萬葉集研究では、現在は「多氏古事記」を用いて解釈することもなくなったが、契沖や荷田春満が「綜麻」の改訓に用いたため、以降一八番歌注に引かれるようになっていた。ただし、仙覚抄の版本や宮内庁書陵部本(351・490)が、「多氏古事記」を含む前後一九字を目移りによって落としており、宣長・契沖・春満は、『土佐国風土記』と言いつつ「多氏古事記」の本文を引用している。このことから、仙覚抄中の「多氏古事記」を知らないまま、本文を受容したものと考えられる。
  本発表では、古事記研究・風土記研究・萬葉集研究で、三者三様の扱いとなっている「多氏古事記」の位置づけについて、これまで、仙覚抄から切り離して検討されてきていたものを、改めて仙覚抄の引用に置き直して検討する。これにより、「多氏古事記」の引用が、仙覚に近い時代に付記された可能性を風土記の受容を踏まえて示す。また、「多氏古事記」が記紀を折衷したような本文をもつことについて、『日本書紀』の権威により再生産された氏族伝承に位置付けることで説明する。



『住吉大社神代記』の垂仁天皇記事―景行・成務・仲哀を含まない天皇系譜―


 住吉大社の古縁起『住吉大社神代記』は、坂本太郎「住吉大社神代記について」(『国史学』第八十九号、一九七二年十二月)における評価に代表されるように、誤りの多い書物と見なされてきた。しかし、単に〈『神代記』の誤り〉として捨て置いてしまっては読み誤るような箇所も存在することは、拙稿「「令三軍神」考―『住吉大社神代記』における『日本書紀』利用の問題をめぐって―」(『上代文学』第百二十九号、二〇二二年十一月)の「令三軍神」をめぐる議論の中で指摘した通りである。本発表では、その「令三軍神」のような『神代記』前半部の『日本書紀』利用記事のみならず、後半部の『神代記』独自記事の中の、坂本論で誤りと扱われたいくつかの箇所にもまた、〈『神代記』の誤り〉と捉えていては見えてこない重要な所伝が隠れていることを指摘する。
 問題となるのは、後半部の「山河奉寄本記」「八神男八神女供奉本記」などの、部分的に『日本書紀』と類似する内容を持つ記事である。坂本氏はこれらの記事について、『日本書紀』との比較から、景行天皇を垂仁天皇と誤っている、『日本書紀』を不自然な形で利用している、といった点を挙げ、低い評価を下す。それに対し本発表では、「御封奉寄初」「膽駒神南備山本記」「天平瓮奉本記」「明石郡魚次浜一処」などの『神代記』後半部の他の記事を参照しながら読むことで、「山河奉寄本記」などの記事が垂仁天皇に関して『日本書紀』とは異なる物語を記していること、そしてその『神代記』独自の垂仁天皇の話が、垂仁天皇と神功皇后を同時代の人物とする―景行・成務・仲哀の三代が存在しない―ものになっていることを示す。このうち、タラシヒコの名を持つ三代が天皇系譜に含まれないという部分は、諸先行研究において『古事記』『日本書紀』内部の矛盾などから導き出された天皇系譜の古態に関する見解とも符合するもので、『古事記』や『日本書紀』を考える上でも興味深いものと言える。



『日本霊異記』上巻第十縁考


 『日本霊異記』上巻第十縁は、人間が、生前行った悪行のために死後牛に転生して労働させられるという、いわゆる〈化牛転生譚〉のひとつとして扱われてきた。『日本霊異記』には多数の〈化牛転生譚〉が存在するが、本話は、『日本霊異記』の中で、唯一、動物が人間と直接会話をするという場面がある。この点を違和として表出して指摘したのが『扶桑略記』で、「斯条頗叵信用。夫畜生之言語。劫初時同人。豈臨像法末。輙有正音哉。若以夢內之妄想,誤録覚前之実語矣。後覧取捨」と指摘している。その違和は、出雲路修校注の『新日本古典文学大系』にも共有されている。
  また、本説話の特徴は、牛が、自分の言うことが真実であることを証明するために、座敷を用意してもらえれば、そこに座ると誓約する場面があることである。このモチーフは、漢訳仏典にも見られるもので、例えば、『仏説鸚鵡経』(『大正新脩大蔵経』第一巻)では、「鸚鵡摩牢兜羅子」は「白狗」を飼っていたが、世尊に、この「白狗」は生前は人間で、お前の父「兜羅」だったのだと指摘される場面がある。父は生前のよくない行動によって「白狗」に転成したのだという。そこで「鸚鵡摩牢兜羅子」は「白狗」に、もしお前が「本生時」に「我父兜羅」ならば、「床褥坐」に座れと命ずる。すると「白狗」は本当に座ったので、「鸚鵡摩牢兜羅子」は世尊の言葉を真実だと知る、という箇所がある。『日本霊異記』上巻第十縁での特徴である、動物と人間との直接の会話や、座上にすわって生前人間の父だったことを証明する描写などは、漢訳仏典の影響を受けていることが考えられる。
  本発表では、『日本霊異記』が、中国古典、中国仏教関係資料のみならず、天竺(インド)を舞台とした漢訳仏典の影響をも強く受けていることを論じたい。



「喩族歌」長歌末尾の表現


 万葉集巻二十に収められた大伴家持の「喩族歌」の長歌末尾には、「あたらしき 清きその名そ おぼろかに 心思ひて 空言も 祖の名絶つな 大伴の 氏と名に負へる ますらをの伴」(20・四四六五)とあって大伴氏が清らかな名を保ってきた名族であることを述べて、軽挙妄動を慎むように諭している。  この一連の構文は、先行する「天皇賜酒節度使卿等御歌」の反歌(6・九七四)が「ますらをの 行くといふ道そ おぼろかに 思ひて行くな ますらをの伴」とうたう、その表現の運びと酷似している。この歌は天平四年の節度使派遣にかかわるもので、「天皇」は聖武天皇と考えられる。家持の「喩族歌」には聖武天皇の詔勅の表現に学ぶ部分が多いことがすでに知られているが、これもまた聖武天皇の存在が「喩族歌」において大きな比重を占めている一証といえよう。  「喩族歌」の長歌末尾は、大伴一族に対して「喩す」という本歌の中心を成すところである。それが、かつての聖武御製の表現と同一の形式を持つということになれば、家持が「喩族歌」を作成した際、聖武天皇のような存在から大伴一族が告諭されるということを意識していたであろうことが思われる。すなわち、聖武天皇が世にあれば、このように我ら一族を喩すことであろうにという思いが、この表現の底には潜んでいるのであろう。となると、「喩族歌」の作中の「話者」として聖武天皇を想定したくなるところだが、敬語使用の状況からすると聖武天皇を直接の話者とすることは困難だ。しかしながら、聖武御製との類似は、家持が告諭を行う立場としてではなく、告諭を受ける立場としてこの作をなしたのではなかったか、という考えを導く。この歌の作歌時点、家持が大伴氏全体を告諭する立場にあったと考えにくいことは先行研究の示す通りである。  今回の発表では、この告諭する一連の表現の「質」を見定めたい。この「~そ+~禁止(または命令)」という文脈は他の歌にもかなり広く見られ、この構文における禁止(または命令)表現と、その前提としての「~そ」の部分との関係性を見定めることは、「喩族歌」の性質についても重要な発言を導くように思われる。また、この表現の類例にはかなり変形したものも見られる。それらについても考察を展開してみたい。


『万葉集』における「喚辞」

 『万葉集』の題詞・左注等に記される諸氏族の官人には、「山上臣憶良」といった『続日本紀』に見える一般的な呼び方以外に、「大宰帥大伴卿」「右大臣橘家」「内大臣藤原朝臣」など名を記さないもの、「安倍広庭卿」「藤原宇合大夫」のように名を記しカバネを記さないもの、また「山上憶良臣」のようにカバネを最後に回すものなどがある。それをどう記すかは、題詞・左注の書き手、あるいは編纂者がその人物をどう待遇しているのかを表すと考えられる。カバネを後に回すものは一般に「敬称法」と呼ばれているが、これは公式令に規定された、公の場での官人の口頭による呼び方、「喚辞」と関わることが指摘されている(山田英雄「万葉集の性格について」『新古典大系』二)。例えば、御所で授位任官する時、三位以上ならば名を先、カバネを後、四位以下は逆にして呼ぶのである。ただしこれは場によって変わり、例えば太政官で呼ぶ時は、三位以上は某+大夫、四位は某+カバネ、五位は某+名+カバネ、六位以下は某+カバネ+名の順と規定されるのである。
 『万葉集』の題詞等は公の場ではないが、官人の呼び方は、その「喚辞」に準拠すると思われる(便宜上これも「喚辞」と呼ぶ)。しかし公の「喚辞」が場によって可変的であるように、『万葉集』の「喚辞」も巻やその箇所によって変化する。例えば巻十九では四位には「敬称法」を用いて五位には用いないが、巻二十では五位以上の官人にはすべて「敬称法」を用いている。それは決して「敬称法」を用いられない家持を筆者・編纂者として、家持の官人たちに対する態度が変化したことを表すのであろう。そして巻六にも、途中から五位の官人に「敬称法」が用いられるようになるという現象が見られる。これも年代順の配列の中で家持が姿を現わすことによる変化と見ることができる。「喚辞」のあり方は、『万葉集』が自らの成り立ちをどう見せているかに関わっているのではないかと考える。




上代文学会-秋季大会


上代文学会秋季大会シンポジウム御案内【ハイブリッド開催】参加費無料
日  時 二〇二三(令和五)年十一月二十五日(土) 午後一時~五時
会  場 二松学舎大学 九段キャンパス 九段一号館 八〇七教室

Zoomを使用したオンライン参加もできます。オンライン参加を希望される会員の方は案内状の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。
対面でご参加の方はお申し込み不要です。当日会場で発表資料をお渡しいたします。
※今後のコロナ感染状況によりましては、全面オンラインとなる場合もあります。HPで最新情報をご確認下さい。
テ ー マ 『万葉集』巻十六の諸相

 近年『万葉集』巻十六に関する論考が盛んに発表されており、巻十六研究の機運の高まりを感じさせる。こうした現在の状況は、巻十六の研究の基礎がより充実し強固となることが期待される。
 巻十六は物語的題詞・左注をもつ歌々が多いのが特色であり、そこには漢籍的知識を応用した語・表現などが散見する。また、条件・状況が多岐にわたる様々な宴席歌や、雅から離れた俗の世界を強く感じさせる戯笑歌、地方の民俗や文化を伝える歌々が収められることも、その特徴といえよう。こうした広範な多様性を内包することが、巻十六の魅力ではないだろうか。
 巻十六は『万葉集』の世界の広がりを知るうえでも貴重な存在であり、また後の文学史へのつながりも視野に入る重要な巻である。研究基盤が強固になるこの機会に、さらに巻十六研究の可能性を探りたい。

パネリスト及び講演題目 巻十六 いま何が問題か
東京大学名誉教授 多田 一臣
『萬葉集』巻十六の伝云型左注について
奈良女子大学教授 奥村 和美
歌文化の多様性と重層性 ――『万葉集』巻十六から見る万葉史――
日本大学特任教授 梶川 信行
(司会 フェリス女学院大学教授 松田 浩)
上代文学会事務局
〒162-8644 東京都新宿区戸山一―二四―一
早稲田大学 文学学術院 二五〇四研究室内
上 代 文 学 会
http://jodaibungakukai.org/


発表要旨

巻十六 いま何が問題か
東京大学名誉教授 多田 一臣

 巻十六について、これまで、いくつかの書物や論を公表してきた。①『万葉集全解 6』(筑摩書房)は、巻十六全体の注釈を含む。さらに巻十六について、まとまった考察を加えたものとして、②『『古事記』と『万葉集』』(放送大学教育振興会)、③『万葉樵話』(筑摩書房)がある。「安積山の歌」(三八〇九)「乞食者詠二首」(三八八五~六)「怕しき物の歌」(三八八七~九)などについても、個別の論を発表している。「志賀の白水郎の歌」(三八六〇~六九)についての論も、近々公表を予定している。
 そのようなわけで、これらの書物や論を前提としながら、巻十六で、いま何を問題とすべきかについて、お話ししてみたい。以下、箇条書風に示すが、限られた時間ゆえ、すべてに言及できないことを、予めお断り申し上げておく。
 Ⅰ 巻十六冒頭の標題「有由縁幷雑歌」をどう見るか。「幷」の有無がまず問題となる。この巻の歌すべてに「由縁」が付随していると見るべきなのかどうか。さらに「雑歌」とは、どのような意味なのか。
 Ⅱ 物語的な左注や題詞を、文学史(表現史)の上でどのように捉えるべきか。和文体の歌物語の始発としての意味を、ここに認めることができるのかどうか。
 Ⅲ 宴席の戯笑歌、さらには物名歌、無心所著歌をどう評価すべきか。上の②③では、そこに「非(反)万葉」的なありかたを認めて、そこから反対に和歌の本質が明らかになるのではないかと述べた。字音語などの語彙の特異性にも注意される。
 Ⅳ 「竹取翁歌」(三七九一~三八〇二)「志賀の白水郎の歌」に、山上憶良はどこまで関与していたのか。
 Ⅴ 地方の歌・芸謡(「乞食者詠二首」)・呪歌(「怕しき物の歌」)をどう捉えるか。
 まだあるが、とりあえずこの範囲内で、お話ししてみたい。


『萬葉集』巻十六の伝云型左注について
奈良女子大学教授 奥村 和美

 『萬葉集』巻十六には、左注部分に「右」「右歌」「右○首」「右歌○首」で歌を指した後、「伝云」と続く形式の文が散見し、冒頭から二十首に見られるいわゆる左注的題詞とは大きな対照をなすことが知られている。先行論では、左注的題詞に、詩序に匹敵するような文飾や強い物語性が指摘される一方、この伝云型の左注については、伊藤博論をはじめとして、その背後にうかがわれる口誦・口承の世界をどう捉えるのかということに関心が集まりがちであった。記載すなわち書く契機の重要性を主張する論もあったけれども、そのことが具体的に、左注の文章の形成や、或いはそのような左注と歌との関係の形成に、どう関与したのかということについては、まだ十分に明らかにされていないように思われる。
 伝云型の左注は、まずこの「伝云」じたいが、他巻の「伝云」「語云」「伝言」などとは異なる意識で用いられていることに注意しなければならない。加えて、現在の巷間の小話をとりあげつつも時の設定をあえて「昔」とすることや、歌の作者について「姓名未詳」としたり、話題の中心人物について「名字忘」として匿名性を匂わせることなど、中国の人物伝、志人・志怪小説、故事逸話集などの叙述形式を巧みに利用して、話を面白くしようとする操作の跡の読み取れる箇所が存する。歌は、そのようなどこか虚実の定かでない設定に置かれることで、いっそう読み手の想像力に訴え面白く享受できるように仕組まれている。
 本発表は、『萬葉集』巻十六の伝云型左注のもつ、そのような作為性ひいては虚構性の一端をいくつか具体的に指摘し、単なる歌の成立事情の説明にとどまらない左注の表現の内実を明らかにする。そのことを通して、歌の「由縁」とは何なのか、歌が「由縁」とともにあるとはどういうことなのか、あらためて考え直してみたい。


歌文化の多様性と重層性 ――『万葉集』巻十六から見る万葉史――
日本大学特任教授 梶川 信行

 四期区分説に基づいて「和歌史」を見据えることが、昭和の頃から常識とされて来た。御代別に歴史化された巻一・巻二が『万葉集』の根幹であって、持統朝の人麻呂によって、和歌の世界が大きく飛躍し、平城京の時代に個性の花が開いたとする万葉観である。すなわち、著名歌人たちによる発展の過程として「和歌史」を描くことが常道とされて来たのである。しかし、巻十六の世界は、そうした見方が必ずしも妥当なものではないということを教えてくれる。
 巻十六は、「物語的な題詞や左注をもつ歌」(三七八六~三八一五)、「宴の場を主たる背景にもつ戯笑歌」(三八一六~三八五九)、「地方の歌、芸謡、呪歌などの特殊な歌」(三八六〇~三八八九)によって構成される(多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房・二〇一〇)が、その中の「戯笑歌」群は、藤原京や平城京の官人層の日常の姿を反映しているものであろう。すなわち、整序された晴れの歌々がヤマトウタ(長歌や短歌といった特定の歌体を指すのではなく、五七音を基本とした歌のすべての謂である)の通常の姿ではなく、「戯笑歌」群のような褻の歌々こそ、その常態だったと考えられる。晴れの歌々は氷山の一角に過ぎず、その水面下に氷山の何倍もの巨大な氷塊があるように、その底流には「戯笑歌」群のごとき、豊かな言葉遊びの世界が広がっていたのであろう。
 このように、「戯笑歌」群の存在に焦点を当てて、古代のヤマトウタの世界を見つめ直してみると、従来とは違った文学史が見えて来る。それは実態としての「和歌史」ではなく、『万葉集』というたった一つの歌集から見える「万葉史」である。「戯笑歌」群には、無名の下級官人ばかりでなく、皇(王)族などの上級貴族や渡来系の人たちの姿も見える。古代社会なりのダイバーシティーだった。著名歌人中心の「和歌史」からダイバーシティーの「万葉史」へ。巻十六の「戯笑歌」群の存在は、万葉観の根本的な転換を示唆しているように思われる。





上代文学会秋季大会研究発表会ご案内【ハイブリッド開催】参加費無料
日  時 二〇二三年(令和五年)十一月二十六日(日)午後二時~午後四時十五分
会  場 早稲田大学 戸山キャンパス 33号館3階 第一会議室

Zoomを使用したオンラインでのご参加も可能ですので、遠方の会員の皆様もぜひご参加ください。
オンライン参加を希望される会員の方は、郵送された参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。
後日、ZoomのURL、発表資料などをメールでお送りいたします。対面でご参加の方は、事前お申し込み不要です。
当日会場で、発表資料をお渡しいたします。
研究発表 大国主神の視座― 『古事記』の工夫と『出雲国風土記』による受容―
早稲田大学大学院教育学研究科博士課程 齊木 果穂
(司会 都留文科大学准教授 小村 宏史)
出雲から見た国譲り
福岡女学院大学名誉教授 吉田 修作
(司会 明治大学准教授 伊藤 剣)

○研究発表会終了後、常任理事会を対面・オンラインのハイブリッド形式で開催します。
上代文学会事務局
〒 162-8644 東京都新宿区戸山一―二四―一
早稲田大学文学学術院二五〇四研究室内


発表要旨

大国主神の視座―『古事記』の工夫と『出雲国風土記』による受容―
齊木 果穂

  『出雲国風土記』は、神田典城や松本直樹によって、『古事記』『日本書紀』の神話を享受し、そのうえで出雲独自の主張を描いていると指摘されている。『出雲国風土記』意宇郡母理郷条にも、記紀の国譲りの影響を受けつつ、オホナムチが「但八雲立出雲国者 我静坐国 青垣山廻賜而 玉珍置賜而守」と出雲一国の守護を宣言する点に独自の主張がみられる。当該条に対し、倉野憲司は「出雲氏族の拔き難い政治的・宗教的勢力の存在」を背景とした「出雲國だけは治外法權的取り扱ひをするといふ宣言」と指摘する。いずれも当を得た見解である。
 ただし、この「治外法權的」な出雲側の主張は、記紀が描く国譲りの文脈に抵触しかねない内容である。記紀において、あくまでも被征服者側に置かれた出雲が、中央に提出する「風土記」でこうした主張をすることができた背景には、大和政権にとっても認めざるを得ない根拠が記紀の内部にあったのではないだろうか。
 『日本書紀』天孫降臨章(第九段)に描かれる国譲りからは、正文・一書ともにオホナムチによる「治外法權的」な出雲支配の根拠を読み取ることはできない。一方で、『古事記』の国譲り条には、大国主神(オホナムチ)が葦原中国を「献」る代わりに宮の造営を要請し、その要請の達成の有無が明示されずに国譲りがなされるなど、曖昧な点を残した箇所がある。この曖昧さが果たして『古事記』の不備なのかどうかも含めて、新たな解釈の余地があると考えている。
 本発表では、『古事記』の大国主神の国譲りの場面における発言を整理し、大国主神の視座に立って国つくり・国譲りを捉え直すことで、出雲と葦原中国を区別する同神の意識を読み取ることができることを指摘する。そこに、出雲の神を利用して出雲を「辺境」に位置づける『古事記』の工夫と、「治外法權」を主張する新たな国譲り神話を創作した『出雲国風土記』の主張の根拠があると考える。



出雲から見た国譲り
吉田 修作

 出雲風土記意宇郡母理郷では、天の下造らしし大神オホナムチが越の一部を平げて帰還なさる時に詔りたもうたことは、「我が造りまして治める国は、皇御孫命の平けく世を治めよと依さし奉らむ。但し、出雲国は我が静まり坐す国と青垣を廻らして玉置き賜ひて守りたまはむ」と言われた、故に文理と言うとある。これは古事記・日本書紀の所謂国譲り神話を踏まえながら別に展開させ、オホナムチや出雲を強調しクローズアップさせたものである。古事記・日本書紀ではタカミムスヒ・アマテラスなどが主体となる「依さし」がここではオホナムチの行為とされ、そのオホナムチが「国作り」でなく「天の下造らしし」との語句を冠し、出雲国はオホナムチが静まります国とするなどとある。「天の下」は古事記・日本書紀では基本的に「天の下を知ろしめす」などと代々の天皇に冠して使用されることが多い。これらのことは出雲の倭王権に対する反発や越権というよりも、意図的な表現と捉えるべきである。
 今一つ古事記・日本書紀の国譲り神話の前段階として差異が見られるのは、出雲国造神賀詞における天上界からの使者アメノホヒの行動である。古事記・日本書紀において最初に天上界から遣わされたアメノホヒは、オホナムチ(オホクニヌシ)に「媚び」て復奏しなかったとあるが、出雲国造神賀詞では天上界から派遣されたアメノホヒが「国形見」として葦原中国の様子を見て天上に報告し、その子がオホナムチを「媚び鎮め」たとする。アメノホヒは出雲国造の遠祖などとされるから、出雲国造神賀詞でクローズアップされるのは当然で、古事記・日本書紀における扱いに対して比べようもなく大きい。そして、それらを倭王権が容認していることも認められる。アメノホヒに関して言えば、日本書紀神代紀一書ではタカミムスヒがオホナムチに国譲りの見返りとして宮の造営を約束し、アメノホヒにオホナムチの祭祀をするように司令する記事がある。その神代紀を踏まえた記事が出雲風土記楯縫郡に見られ、そこではタカミムスヒではなくカミムスヒの詔とあり、楯縫の地名由来譚として伝えられている。
 このように、出雲国風土記、出雲国造神賀詞において古事記・日本書紀とは別の国譲り神話が垣間見られるが、そのような言説が出雲側に何故に必要だったのか、また倭王権側がそれを受け入れ容認したのは何故か、各テクストの表現分析を通して、倭王権と出雲との関係性も含めて考える。



令和五年度秋季大会ポスターについて

本年度は諸般の事情で、ポスターの印刷・送付を致しておりませんため、PDFデータの形でHPに掲載致します。
恐れ入りますが、下記をクリックして頂きまして、適宜プリントアウトの上、ご勤務先等での掲示にご利用下さいますようお願い申し上げます。
【令和五年度秋季大会ポスター リンク】



上代文学会-例会


二〇二三年度(令和五年度) 上代文学会 七月例会 案内
日  時 二〇二三年(令和五年)七月八日(土)午後二時~午後四時三〇分
会  場 Zoomによるオンライン開催
参加を希望される会員の方は、案内状に記載の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。
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研究発表 家持の「山柿之門」と池主の「山柿歌泉」
『萬葉集』における「神代(神の御代)」観 ○研究発表終了後、常任理事会(Zoomによるオンライン開催)を開催します。


発表要旨
家持の「山柿之門」と池主の「山柿歌泉」

 本発表は、『萬葉集』巻十七に収められる、天平十九年三月三日付の大伴家持「更贈歌一首」の書簡文の中の「幼年未逕山柿之門」と、同月五日付の大伴池主の書簡文にある「山柿歌泉比此如蔑」との二つの表現を考察の対象とする。
 平安時代以来『古今和歌集』序の影響により、「山柿」は柿本人麻呂と山部赤人の並称と解釈されてきたが、明治時代に入ると、佐佐木信綱氏は初めてその説に反対し、「山柿」は柿本人麻呂と山上憶良の並称と主張した。一方、折口信夫氏らにより、柿本人麻呂一人説などの意見も主張されてきた。
 昭和三〇年代までの研究の多くは、赤人・憶良の優劣論という主観的な考察に重点が置かれた。それに対して、村田正博氏は「家持における古典意識」という視点から考察し、芳賀紀雄氏は「併称」(並称)を手掛かりにしてそれを論じ、人麻呂一人説の可能性を高めた。一方、鉄野昌弘氏は中国の文学論に言及し、家持は作品の「体」の源流を憶良に求めていたが、「山柿」は憶良ではないと指摘した。
 そこで本発表では、まず並称を手掛かりにし、山柿が並称として成立するかの可能性について検討する。そのうえで、二人の作品における先行歌人の影響を示しつつ、家持が憧れる山柿と池主が理解した山柿の間に齟齬が見られることを確認する。結論としては、家持は幼少期に憶良と交流することがあり、その多数の作品を模倣する一方、憶良と異なる独自性を持つ表現をも作ったため、「山柿」の指す対象を憶良と人麻呂と解釈すれば、書簡文の「未逕山柿之門」の意味に当たらない。家持の作品における人麻呂の影響と書簡文の内容を考え合わせると、家持が至っていないのは「人麻呂の門」と考察される。それに対して、池主は赤人の一部の作品を理解し、家持以上に赤人の表現を継承し、かつ赤人から影響を受けたと思われる表現を積極的に贈答歌に取り込んでいることから、家持書簡における「山柿」を山部赤人と柿本人麻呂の並称と誤解していたと推察される。


『萬葉集』における「神代(神の御代)」観

 本発表は、『萬葉集』における「神代」(「神の御代」なども含む)の語について論じる。「神代」という言葉と「神の御代」という表現とについて、内容面の差異を指摘する研究もある(毛利正守「柿本人麻呂の「神代」と「神の御代」と」)が、それぞれの用法に顕著な違いを認めがたいことや、「神の御代」(一〇六五歌)を反歌で「神代」と言い換えている例がある(一〇六七歌)ことなどによって、すべて同列に扱うと、『萬葉集』にはそれらの語を含む歌が二十二首認められる。そこには中大兄の三山歌、人麻呂・金村・赤人の吉野讃歌、憶良の好去好来歌、家持の教喩史生尾張少咋歌・橘歌・陳私拙懐歌などの著名な歌が多く含まれ、この語は『萬葉集』の中でも長期間にわたって受け継がれた重要な語句の一であると言える。そこで本論では、「神代」(「神の御代」)の語について、まずこの語が持つ基本的な概念を確認し、続いてこの語を含む歌のうちのいくつかを見わたしながら、『萬葉集』における「神代」観の一端を考えてみたい。
 具体的には、まず人麻呂を取り上げる。吉野讃歌(三八歌)の内容を「天皇即神というような抽象的・抑圧的な思想ではない。」とする説(品田悦一「神ながらの歓喜―柿本人麻呂「吉野讃歌」のリアリティー―」)が提示されたこともふまえつつ、本歌の「神の御代」や三〇四歌(人麻呂作歌)の「神代」の意味内容を改めて検討し、また人麻呂歌集二〇〇七歌も見比べて、「人麻呂関係歌の「神代」観」を論じる。続いて「人麻呂以後の「神代」観」として、金村九〇七歌、赤人一〇〇六歌、田辺福麻呂一〇六五・一〇六七歌における「神代」(「神の御代」)の用法について人麻呂関係歌と比較しながら考察し、その後、これらの歌々の表現が家持歌へどのように結びついているかを見極める。以上の考察をとおして、「神代」(「神の御代」)に対する萬葉歌人たちの心意の、継承と変容の様相を明らかにしたい。




二〇二三(令和五年度)上代文学会一月例会 ご案内
日  時 二〇二四年(令和六年)一月二〇日(土)午後二時~午後三時三〇分
会  場 Zoomによるオンライン開催
参加を希望される会員の方は、別途送付の案内状に記載の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。後日、URL等、参加に必要な情報を返信致します。遠方の会員の皆様もぜひご参加ください。
研究発表 『黄泉国訪問譚における漢籍受容 ―『古事記』『日本書紀』との相違を中心に― ○研究発表会終了後、常任理事会をオンラインで開催します。


発表要旨
黄泉国訪問譚における漢籍受容 ―『古事記』『日本書紀』との相違を中心に―


 黄泉国訪問譚は、『古事記』と『日本書紀』神代巻第五段一書第六・第九・第一〇にみられ、上代文献における死者が赴く場所として、これまで検討が重ねられてきた。その中で、「黄泉」という表現を用いるのは、『古事記』と一書第六のみであり、世界観を含めて共通点の多さが指摘されている。一方で、一書第九・第一〇を含めると相違点が多く、『古事記』『日本書紀』の伝承を押し並べて同一説話として扱うことは難しいとの見解も示されている。
 そもそも、「黄泉」は漢語であり、『古事記』『日本書紀』が漢籍の影響を受けながら成立したことは言うまでもない。そのため、黄泉国訪問譚においても、漢籍が示す「黄泉」と上代文献の「黄泉」との一致を検討しなければならない。『古事記』『日本書紀』と漢籍における「黄泉」を比較し、それぞれの文献が描く「黄泉」の世界観を確認することで、「黄泉」の受容態度と、日本独自の世界観が浮き彫りになると考えられる。
 たとえば、『古事記』では、黄泉国の所在が明示されていないが、キタナキ国とされており、そこを訪問したイザナキは禊祓を行う。対して、『春秋左氏伝』に見える「黄泉」は地下にあり、訪問者は禊祓に相当する「沐浴」は行わない。一方で、『礼記』『儀礼』では、死者に接した者は「沐浴」を行うことが記されている。このように、漢籍と『古事記』『日本書紀』における「黄泉」の意味が異なっており、「黄泉」に対する認識の違いが認められる。また、一書第一〇では、黄泉国を「泉国」と表記しており、イザナミが赴く場所という点では「黄泉」と同一視することが可能であるが、漢籍とは異なった表記に独自の認識が表れている。
 このように、「黄泉」という語は漢籍に由来するが、それを地下世界と捉えるか、『古事記』『日本書紀』のように「特定の空間(クニ)」として理解するかでは、世界観の相違があろう。これは、漢籍の世界観をそのまま受容していないことの現れでもある。
 本発表では、『古事記』『日本書紀』と漢籍における「黄泉」を比較することで、遺体への認識を通じて、それぞれの世界観を検討する。また、古代日本における漢籍の受容態度を明らかにするとともに、漢籍にみえない『古事記』『日本書紀』の黄泉国観について考察する。




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