2024年度(令和6年度) 古事記学会・上代文学会合同大会 大会案内 | |
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期 日 | 令和6年5月18日(土)、19日(日)、20日(月) |
会 場 | 18日(土)ノートルダム清心女子大学 岡山県岡山市北区伊福町2‐16‐9 JR西日本「岡山駅」下車徒歩10分 19日(日)岡山大学津島キャンパス 岡山県岡山市北区津島中3‐1‐1 JR津山線「法界院」下車徒歩10分、JR西日本「岡山駅」西口よりバス15分 (岡大東門または岡大西門バス停下車) ※土曜と日曜で会場が異なりますのでご注意下さい。 また、会場校へのアクセスにつきましては、以下をご参照ください。 ・ノートルダム清心女子大学:https://www.ndsu.ac.jp/about/access.html ・岡山大学津島キャンパス:https://www.okayama-u.ac.jp/tp/access/access_4.html |
日 程 | ・当日の進行によって、時間が前後する場合がございます。 ・古事記学会の理事会・総会の日程は、下記とは異なります。古事記学会の会員の方は、古事記学会からの案内も合わせてご確認ください。 |
― 18日(土) ― | |
理事会 | (午前11時~11時45分) |
講演会 | (午後2時~5時)ノートルダム清心女子大学 ヨゼフホール3階 300教室 開会挨拶 上代文学会代表理事 早稲田大学非常勤講師 工藤 浩
大会運営校挨拶
ノートルダム清心女子大学副学長 豊田 尚吾
講演会テーマ「古代の吉備・播磨」 吉備津采女の歌 ―柿本人麻呂と「われ」と― 駒沢女子大学教授 三田 誠司
『播磨国風土記』と文化圏 ―山の道・海の道、そして吉備
埼玉大学教授 飯泉 健司
吉備と倭王権
岡山大学教授 今津 勝紀
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古事記学会奨励賞・上代文学会賞贈呈式 | (午後5時~5時10分) |
総会 | (午後5時10分~5時50分) |
懇親会 | ノートルダム清心女子大学 学生食堂(午後6時~) |
19日(日) | |
研究発表会 | (午前10時~午後4時30分)岡山大学教育学部講義棟2階 5202教室 《午前の部》午前10時~ タカテラス・タカヒカル小攷 青山学院大学大学院博士後期課程 西澤 駿介
遣新羅使人らの旅程早稲田大学大学院博士後期課程 榎戸 渉吾
―休 憩―《午後の部》午後1時~ 「霞たなびく『春』」 ~巻十による景物の形象~ 同朋大学専任講師 山﨑 健太
史書に「諱」を記すこと ―『先代旧事本紀』の場合桃山学院大学講師 星 愛美
―休 憩―(午後2時40分~2時50分) 『日本霊異記』における「天」の表現 ―天皇との関係から― 和洋女子大学准教授 大塚千紗子 賀茂真淵と風土記 ―『文意考』所引『出雲国風土記』国引き詞章を中心に― 千葉大学教授 兼岡 理恵
閉会挨拶 古事記学会代表理事 学習院女子大学名誉教授 神田 典城 〇図書展示 5月18日(土)に、ノートルダム清心女子大学附属図書館特殊文庫資料展観(中央棟7階 特殊文庫閲覧室)を行います(午前9時30分~午後6時)。 |
20日(月) | |
臨地研究 | ※特にご案内は致しません。 |
大会研究発表要旨 | |
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タカテラス・タカヒカル小攷 西澤 駿介 『萬葉集』には「日の皇子」にかかるものとして、「タカテラス」と「タカヒカル」という二つの枕詞がある。「タカテラス」は天皇や皇位継承者、「タカヒカル」は天武天皇系皇子に対して用いられるという使い分けがあり、「タカテラス」は柿本人麻呂創案の新しい枕詞であると捉えられている(橋本達雄「タカヒカル・タカテラス考」『万葉集の時空』等)。しかし、『古事記』における「タカヒカル」の用例と比較すると、『萬葉集』における「タカヒカル」の用法も、決して伝統的用法を踏襲したものではなく、人麻呂の時代に再創造されたものと見ることができる。 「タカヒカル」は、天武天皇系皇子とはいえ、事績の少ない長皇子や弓削皇子にまで用いられている。「タカヒカル」は皇子たちの出自に深く変わるものであったと考えられる。すなわち、「タカヒカル」は母を皇女とする皇子に用いられ、氏族を母とする皇子たちと明確に差別化するものであった。但し、例外として、藤原氏出身の五百重娘を母とする新田部皇子に「タカヒカル」が用いられている。これは持統朝においても藤原鎌足の血筋を特別視する意識の表れと見られる。なお、皇女を母とする皇子の中では舎人皇子については「タカヒカル」が用いられていない。舎人皇子が有間皇子を含む阿倍倉梯麻呂の血筋を引くためと考えられる。 天武天皇が后妃とした皇女は、すべて天智天皇の皇女である。『萬葉集』巻一・巻二、および巻三冒頭部が編纂されたと推測される元明朝において、「タカヒカル」は、天智天皇と天武天皇の両方の血筋を引く皇子を称える枕詞として機能し、首皇子(聖武天皇)への皇位継承を正当化するものとなったと見られる。また、首皇子の母が藤原宮子であることを踏まえれば、藤原氏出身の新田部皇子に「タカヒカル」を冠していたことも、それを一層強化するものであった。 本発表は、『萬葉集』における〈歴史〉の構築をジェンダーの視点を導入して、父系だけでなく母方の血筋の重視に注目して、『萬葉集』の枕詞「タカヒカル」を捉え直すものである。 遣新羅使人らの旅程 榎戸 渉吾 『萬葉集』巻十五・遣新羅使人歌群は、遣新羅使らの歌一四五首が概ね航程順に配列される歌群である。当歌群の研究史は、大濱厳比古が「実録風な創作(ドキユメンタリ・フイクシヨン)」(「巻十五」、『萬葉集大成』四)であると指摘して以来、歌群のもととなった資料の有無や実態が追求されがちであったが、近時、山崎健司が特定の編纂者の存在を想定せずに考察を進めたのは首肯される方向性である(「萬葉集の本文解釈学的研究」、『明治大学人文科学研究所紀要』八六)。 伊藤博は本歌群について「心情的には『妹』を、時間的には『秋』をモチーフとする虚構体」と述べ、「望郷係恋や旅愁を過剰に示す後向きの歌ばかり」と指摘する(「万葉の歌物語」、『萬葉集の構造と成立』下)。しかし、歌群中の当地の美景を讃める歌からは妹や秋への志向はうかがえず、伊藤が全体を覆うとする「後ろ向き」の思いは読み取れないように思われる。安芸国から周防国航行中にそうした歌が目立つのは、難波出航後しばらく経ち、気持ちのうえで余裕が出てきて穏やかな航海ができるようになったことを表すのではないか。 しかし、そうした穏やかな航海は佐婆海で逆風にあい漂流してしまうことで脆くも崩れさる。このトラブルを期に題詞には「悽惆」「悽愴」といった辛さを表す表現が目立つようになり、使人たちが旅愁を深めていく様子がうかがえる。そして、それは壱岐島で雪宅満を鬼病で亡くしてしまうことで決定的なものとなるのであった。このような読み方は山崎論にも示されているが、山崎論は考察の対象から冒頭の三十首あまりを除く方法をとる。しかし、今ある本歌群がどう読めるのかを考えるためには、一四五首を総体として捉える視点が必要だろう。 本歌群全体を見渡すと、本歌群は使人らの浮き沈みある旅程を表しているものと認められ、そのように一四五首を構成することで、遣外使が任地に向かう間に何を見、いかなる思いを抱いたのかを追体験できる作品として企図されたのである。 「霞たなびく『春』」~巻十による景物の形象~ 山﨑 健太 『万葉集』巻二十は「十二月十八日於大監物三形王之宅宴歌三首」と題して四四八八~四四九〇の三首を載せるが、それぞれの歌は明日に迎える年内立春において「鶯鳴く」或いは「霞む」「春の景」が実現せられる確信を歌う。 三首の歌群より一首隔てて置かれる「廿三日於治部少輔大原今城真人之宅宴歌一首(四四九二)」はその年内立春を過ぎた日付が提示され、その歌でも同様に「霞たなびく」ことが「春立ちぬ」という季節の把握の根拠とされている。「立春」を経たからには「春」でなければならず、「春」である以上「霞たなびく」ような確定的な「春の景」が現れていなければならないという観念の先行がこのような表現と題詞の現れようを可能にしている。巻二十は、そうした観念の結びつきが前提された上で読むことを求めるありようをしているといってよい。 しかし、巻三「夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首」に続く「悲緒未息更作歌五首」中四七三番歌では 佐保山にたなびく霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし(四七三) など秋に「たなびく霞」が見え、巻八「秋雑歌」には憶良の 霞立つ天の川原に君待つとい行き帰るに裳の裾濡れぬ(一五二八) もあり、「霞立つ、霞たなびく」ことが『万葉集』テキストを通じて「春の景物」として確定的に現れているとは言いがたい。 しかるに、巻二十が確定的な「春の景」として「霞」を扱うことのできる理由はどこにあるのであろうか。これを、同時代的な景物をとらえる感覚の問題に帰してしまうと、四七三の家持歌のありようなどを説明できなくなってしまう。あくまで『万葉集』テキストの問題として考える必要があろう。 本論では、巻十「春雑歌」内の歌の配列によって『万葉集』テキスト内に「春の景物、春の到来を確信させる景物」としての「霞たなびく」景が立ち上げられ、それを前提として以後の詠物を捉えていく読解を『万葉集』テキストが要求しているものと捉えることで、巻二十においても同様の前提が読解上要求されていることを説明する。その際に、西澤一光による『万葉集』の集蔵体論を参照しながら、巻七、八、九に続く巻十の位置を捉えたい。 史書に「諱」を記すこと―『先代旧事本紀』の場合 星 愛美 『先代旧事本紀』の本文は、『日本書紀』等の先行書のテクストを利用して構築されている。各天皇紀冒頭の記述が詳しく形式が統一されているのが特徴のひとつで、時には天皇の諱や在位年数など、『書紀』を超える情報が記載されることすらある。しかしながら、これらの情報の確かさには大いに問題があり、特に天皇紀冒頭に挙げられる「諱」の性質は他書と大いに異なるため、一考の余地がある。 『旧事本紀』は安寧天皇・懿徳天皇・神功皇后を除くすべての天皇条の冒頭で天皇の「諱」を挙げるが、その殆どは「諱御間城入彦五十瓊殖尊」のごとく、『書紀』に記載された天皇の尊号に手を加えたものである。「諱」とは一般に死者の生前の名または貴人の実名をさすものであり、このように尊号を「諱」とする例は上代文献中に類を見ない。これについては、平安期に「諱」の拡大使用があったとの指摘が夙になされているが、理由はそれだけではないと考える。『旧事本紀』における『書紀』所収資料の扱われ方などをみても、この「諱」は編纂の都合上強いて操作が行われた結果の産物であると考えられる。 そもそも『書紀』は殆どの天皇条において天皇の実名を「諱」として提示することをしない。しかし、『続日本紀』以降の六国史や『日本紀略』をみると、八世紀末以降、徐々に各天皇紀冒頭に「諱」として天皇の実名が明記されるようになっている。『旧事本紀』はこの潮流を受け、各天皇条冒頭に「諱」を記す形式たらんとしたために、『書紀』に記載のない天皇の「諱」を案出する必要に迫られたのではないだろうか。十世紀以降の成立とみられる『聖徳太子伝暦』にも同様に尊号を「諱」として挙げる例がみられることから、史書に「諱」を記す傾向および『旧事本紀』の手法が影響を与えた可能性が考えられる。 記述内容の不確かさについて、たとえば『旧事本紀』の自注をみると、注が付されていること自体が重視され、注内容の矛盾は放置されているような箇所も散見される。大胆な「諱」の案出のさまを考え合わせても、『旧事本紀』においては内容の確実性や整合性より、本文を所定の形式に統一することの必要性が重大視されていたと考えることができる。 『日本霊異記』における「天」の表現——天皇との関係から—— 大塚千紗子 『日本国現報善悪霊異記』(以下、『日本霊異記』)には「天」に関連する語が多く用いられているが、その位置づけは一様ではない。 小泉道は上巻序文における聖武天皇の大仏造立と陸奥国の黄金出土の逸話に「天」や「地」の語が用いられることを挙げ、これらが祥瑞思想を踏まえた表現であると指摘した。また、石井公成は人物の善行や功徳に感応する例から、「天」が本書全体の構造と密接に関わることを述べ、八重樫直比古は大神高市万侶の感応譚(上巻第二十五縁)に見える「諸天」の語が、義浄訳『金光明最勝王経』に由来するものと示唆する。これまでは『日本霊異記』における瑞祥の表現方法、説話の思想的背景から指摘がなされてきた。 注目すべきは、史実と関わる説話において「天」や「地」の語が重要な役割を持つことである。例えば、下巻第三十八縁の聖武天皇の遺詔では、天皇の遺言に従わないと「天神地祇」が災を下すとある。また、上巻第五縁には、排仏派の中心であった物部弓削守屋の行為を「天」や「地」が憎むという表現が見える。物部弓削守屋は謀反を起こして敗死するが、説話のなかでは、天地の神々から誅殺されたかのように語られている。結果として天皇が直接的に手を下す行為であっても、『日本霊異記』は「天」と天皇との結びつきを表現しているのである。このような例を踏まえると、「天」に関連する語は祥瑞思想の表現という指摘だけでは捉えきれない問題があるのではないか。 そこで本発表は、『日本霊異記』内の「天」に関連する語を整理し、その分布と使用傾向を把握する。なかでも謀反など史実に関わる説話を中心に、『日本書紀』や『続日本紀』を踏まえて分析する。史書の使用傾向を踏まえると、『日本霊異記』の「天」に関連する語は天皇の善政を保証し、謀反人への誅殺の正当性を揺るぎないものとする効果を持つ用語と考えられるのである。聖武天皇の大仏造立や遺詔において「天」に関連する語が記されるのはこのためではないか。以上のことから、本発表では『日本霊異記』が「天」と天皇とを結びつけようとする表現方法の一端を指摘したい。 賀茂真淵と風土記―『文意考』所引『出雲国風土記』国引き詞章を中心に― 兼岡 理恵 賀茂真淵『文意考』は、いわゆる「五意考」の一つ、文章論を中心とした著作で、総論および文例から構成され、流布本と広本がある。そのうち広本に収載される文例に、「くになし(国作)」として掲げられる『出雲国風土記』意宇郡・郡名起源―いわゆる国引き詞章―がある。同記事は、風土記についてまとまった著述のない真淵の風土記研究を考える上で、注目すべきものである。第一に、真淵が所持していた『出雲国風土記』(以下、『出雲』とする)写本の概要が窺える点である。真淵が『出雲』写本を有していたことは、『祝詞考』『祝詞解』などの著作における引用や、狩谷棭斎旧蔵本『出雲』の奥書などから窺えるが、写本自体は現存しない。そのような中、この『文意考』所引国引き詞章や『祝詞考』等の引用は、真淵所蔵『出雲』写本の概要を推定しうるものといえる。第二に、真淵による国引き詞章の訓読が示されているが、その訓みには、真淵の師である荷田春満の『出雲風土記考』との関連が窺えるとともに、両者の国引き詞章をめぐる解釈の相違が浮かび上がってくることである。そして「上つ代にこそことばのあや(文)あざやかにしてみやびたり」(『文意考』広本・総論)と説く真淵は、国引き詞章について「風土記は、其国郡に仰こと有て、上つ代より伝れる古事をはじめて、時にあることをもしるさせ給へれば、此類の文はいとも古き代より伝はりしこと也」(『文意考』同条)と評するが、これは真淵同様、風土記に関する著作のない本居宣長が、国引き詞章を「其文いとも〳〵上ツ代の雅言なり、心留めて読べし」(『古事記伝』)と評し、「出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文」(『玉勝間』)として、風土記の中で唯一、注釈を為したことに連なるものである。 本発表では、『文意考』所引『出雲国風土記』国引き詞章をてがかりに、真淵の風土記研究や風土記観を明らかにする。 |
【お問合せ】上代文学会事務局
〒162-8644
東京都新宿区戸山1-24-1
早稲田大学文学学術院2504研究室内
上代文学会事務局
Eメール jimukyoku@jodaibungakukai.org
※※2023・2024年度(2025年3月31日迄)