| 上代文学会秋季大会シンポジウム御案内【ハイブリッド開催】※非会員は参加費500円 | |
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| 日 時 | 二〇二五年十一月十五日(土)午後二時~五時 |
| 会 場 | 日本大学法学部 一〇号館 一〇一一講堂 会員外の方もご参加になれます。対面でご参加の場合はお申し込み不要です。会員外の方は受付で500円をお支払い下さい。zoomを使用したオンライン参加もできます。オンライン参加を希望される方はhttps://forms.gle/rwsBeRFWPjJ1KMNx8から登録フォームにアクセスして、必要事項を記入・送信の上、お申し込みください(11月8日(土)まで)。 なお、シンポジウム資料はhttps://bit.ly/4p7DHIxからダウンロード可能です(会場では資料を配布いたします)。 URL入力をしてもフォームにアクセスできない場合には、11月8日(土)までに以下のメールアドレスへご連絡ください。 URLリンクをメールにてお伝えします。symposium(アットマーク)jodaibungakukai.org |
| テ ー マ | 上代文学研究としての万葉集伝本研究の可能性 『校本萬葉集』の刊行から百年を迎える。佐佐木信綱の心魂傾けた悉皆調査による書影の蒐集と、橋本進吉、武田祐吉による緻密な書誌学考察に基づく諸本の分類・系統付けによって、萬葉集研究は万人に開かれたといってよい。 特にここ十年ほどは、国立国会図書館のデジタルコレクションや国文学研究資料館の国書データベースをはじめ、諸機関による貴重書の画像公開が進み、伝本そのものの姿が比較的容易に確認できるようになった。と同時に、書影を見ることができても『校本萬葉集』に記述がない場合、それがどのような意味、価値を持つのかよくわからない、そうした場面に多くの人が遭遇しているはずだ。伝本を同類の資料群の中に位置づけるには、全体を俯瞰する視点及び知識が必要となる。 『校本萬葉集』の刊行以来、古くは小島憲之、上田英夫、大久保正らによって、近時では小松靖彦や本シンポジウムのパネリスト、また若い研究者らによって、書誌に関する情報や系統に関する新見が加えられている。しかしながら、伝本研究が萬葉集研究の確固たる一角を成すように見えるその一方で、上代文学研究としての伝本研究の意義―例えば、表現や表記の研究、成立論、作品論とどのように関わるのかといった点―については必ずしも明らかとは言えない。 本シンポジウムの第一のねらいは、『校本萬葉集』以降に提出された伝本に関する新見を整理していま残る問題を見通すという点に、第二のねらいは、他の方法論を用いた上代文学研究と伝本研究との結節点を見出すという点にある。 『校本萬葉集』の目指した方向、また現行の伝本研究に対する批判的立場も勿論あり得るだろう。『校本萬葉集』という不朽の大著に向き合い、相対化するためには、パネリスト数名の力のみでは足らない。会員諸氏の積極的な参加を期待したい。 |
| パネリスト及び講演題目 |
伝本研究における万葉集の目録 日本女子大学教授 田中 大士
『万葉集』巻十七論―元暦校本の取り扱いと歌集の成立― 関西大学教授 村田 右富実
文永三年本再考―西本願寺本『万葉集』における別筆補写の存在― 日本女子大学学術研究員 野呂 香
(司会 慶應義塾大学教授 新沢 典子) |
| 発表要旨 | |
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伝本研究における万葉集の目録・要旨 日本女子大学 田中 大士 万葉集の現存最古の伝本、桂本は題詞が歌より高く書かれていることが知られている。これは万葉集の原本の姿を反映するものと考えられる。題詞が歌より高いのは、題詞を歌より目立たせたいためと考えられる。この桂本の題詞は、歌より高いだけでなく、天皇が作者の場合他の題詞より二字分高く、皇族が作者の場合一字分高く書かれている。さらに年次が示される題詞も他より二字分高くなっている。他より高くなっているのは、題詞の中でもこれらの題詞を更に際立たせたい故と考えられる。一方、他の万葉集の平安時代写本(平仮名訓本)は、題詞が歌よりも低く書かれており、桂本のような特徴は見られない。しかし、たとえば同じ平安時代書写の元暦校本を見ると、桂本で題詞が他より高くなっている部分について、目録においてやはり他より高くなっている(桂本に当該の目録現存せず)。これは、桂本の題詞の措置と同様の意図に基づいたものと考えられる。他の平安時代写本の金沢本、藍紙本などにもほぼ同様の傾向が見られる。これは、万葉集の原本の段階で、目録にも本編の題詞にも作者の身分によって差異を付けること、また年次を際立たせることがきわめて重要であったことを意味しよう。 この傾向は、平仮名訓本のあとを承けた片仮名訓本系統にも痕跡を残すが、徐々に明確な傾向が薄れてゆくことが確認される。しかし、片仮名訓本を承けた仙覚校訂本、なかんずく第二次校訂本の仙覚文永本においては、目録の作者が天皇・皇族の場合、年次が付された場合、他よりも高くすると言う傾向が一貫して見られる。これは、仙覚が文永本において、古い本で題詞が歌よりも高いことに習い、題詞を高くするよう改めたことと同じく、本来の万葉集の姿を復元すべく、目録の高さを調整したことを意味すると言えよう。 『万葉集』巻十七論―元暦校本の取り扱いと歌集の成立― 関西大学 村田 右富実 『万葉集』巻十七は、非仙覚本に恵まれない。元暦校本はほぼ残っているものの、武田祐吉氏「『元暦校本万葉集』巻第十七の一考察」(『日本文学論纂』明治書院一九三二年/『武田祐吉著作集 第五巻』角川書店一九七三年所収)は、四丁分の落丁を想定した。その後、二葉発見され、現時点で欠けているのは三九一〇番歌の左注~三九一三番歌の歌本文の途中までである。類聚古集が補う部分があるものの、廣瀬本が出現するまで三九一一番歌の序文は非仙覚本が一本もない状態にあった。そういう事情もあるだろう。巻十七において元暦校本は極めて重要視されてきた。しかし、元暦校本と仙覚本系の写本で対立する場合も多く、同論文は、 (元暦校本の―引用者注)伝来は、本巻校勘上重要なる意義を有するものであるが、さりとてこの本の形が、すべて『万葉集』の原型に近いものと断ずるを得ないのはもちろんである。 と、指摘する。この武田論文をうけ、吉井巌氏「元暦校本万葉集巻十七の一性質」(『万葉』十号・一九五四年四月)も、元暦校本について「厳密に考量され、慎重に使用される必要があらう。」と述べる。 本発表では、こうした先哲の優れた研究を襲いつつ、廣瀬本の登場をうけ、あらためて巻十七全体を見通すことによって、元暦校本が人為的に整斉された本文であることを述べる。また、元暦校本の代赭書入、京大本の代赭書入、検天治本、さらに『和歌真字序』、『八雲御抄』などを参照しつつ、『万葉集』の原態について考察する。 そして、こうした作業は巻十七の非整斉を明らかにするばかりでなく、『万葉集』という書物を歌集としてどのように把握するかという問題にも及ぶ。『万葉集』全体が歌集であるという理解を否定するつもりはないけれども、拙稿「『万葉集』巻五の前半部の性質について」(『万葉集研究 第三十四集』塙書房二〇一三年)にも述べたように、書簡集としての側面も見出すべきであろう。 文永三年本再考―西本願寺本『万葉集』における別筆補写の存在― 日本女子大学学術研究員 野呂 香 仙覚が弘長、文永年間に校合を重ね、文永二年に宗尊親王に献上した校訂本を文永二年本、その翌年、文永三年に再び書写した校訂本を文永三年本と称している。『校本万葉集』以来、西本願寺本(巻十二以外)が、この《文永三年本》から生じた、いわば正統な文永三年本であり、紀州本(巻十一~二十)などは、その退化した末流であると考えられてきた。しかし、近年、西本願寺本(巻十二以外)や紀州本(巻十一~二十)を含む文永三年本系統諸本は特定の《文永三年本》から生じたのではなく、仙覚の校訂の進度、段階に応じて生じた文永三年本グループとも称すべきものだとする見解が示された。ならば、西本願寺本(巻十二以外)もまた、この文永三年本グループの中における位置づけを示すことが必要であろう。鎌倉時代後期に書写された西本願寺本は、二十巻揃った『万葉集』としては最も古い書写であるが、巻十二は文永本ではないという取り合わせ本であり、別筆による補写も多く存在している。別筆補写は複数種類あるが、書写からほど近い時期に別筆で補われたものとして、巻一巻末の仙覚文永三年奥書と橘諸兄伝、巻十・二〇六一から二〇七五、巻十・二一九九から二二一四などがある。この別筆補写の内容からは、その際に用いられたのは、巻一巻末に仙覚文永三年奥書、橘諸兄伝を有する二十巻揃いの本であり、その本文は西本願寺本よりも紀州本(巻十一~二十)など寛元本に近い段階の本であったと考えられる。別筆補写を除いた西本願寺本(巻十二以外)は、巻一巻末に仙覚文永三年奥書と橘諸兄伝を欠く本で、その本文は寛元本よりも文永十年本に近い。また、巻十一に多く存在する左傍訓や、巻十五における異伝訓が朱ではなく墨であるといった点からは、西本願寺本(巻十二以外)もまた、特定の《文永三年本》から生じた正統な文永三年本ではなく、仙覚の校訂の進度、段階に応じた文永三年本グループの本であるといえる。 | |
| 令和七年度 上代文学会秋季大会 研究発表会ご案内【ハイブリッド開催】参加費無料 | |
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| 日 時 | 二〇二五(令和七)年十一月十六日(日)午後一時~四時四〇分 |
| 会 場 | 日本大学文理学部 百周年記念館 二階 国際会議場 Zoomを使用したオンラインでのご参加も可能です。オンライン参加を希望される方は事前にお申し込みください。 後日、ZoomのURL、発表資料などをメールでお送りいたします。 ▼ オンライン参加申し込み https://forms.gle/5E8xwDKL8SASJQnE6 申し込み締切:11月6日(木) 対面でご参加の方はお申し込み不要です。当日会場で発表資料をお渡しいたします。 対面でご参加になる会員外の方もお申し込み不要です。 研究発表会終了後、常任理事会を対面・オンラインのハイブリッド形式で開催します。 詳細は後日ご連絡いたします。 |
| 研究発表 |
『古事記』における「天沼琴」 海田喜一(皇學館大学大学院博士後期課程)
(司会 松田浩(フェリス女学院大学教授))
一四五番歌左注が意味するもの—「挽柩之時所作」を起点として— 谷信吾(名古屋大学大学院博士後期課程)
(司会 高桑枝実子(東京都立大学准教授))
雄略天皇と「群臣」―『日本書紀』「雄略紀」における吉野蜻蛉野狩猟条の位置づけ― 吉原美響(東京都立大学大学院博士研究)
(司会 津田博幸(和光大学教授))
『万葉集』巻一の見せる「天武持統代」―四四番歌左注の位置から― 山﨑健太(同朋大学講師)
(司会 品田悦一(東京大学名誉教授))
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| 発表要旨 | |
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『古事記』における「天沼琴」 海田 喜一 『古事記』における接頭辞「天」「天之」について、既に発表者はそれらの用例が上巻の天孫降臨以前の特に高天原や天神に関わる記事に集中することから高天原という場と強固な結びつきを持つ語であることを明らかにし、先行の諸研究でそれらの用法に該当しない特異な例と考えられ、単なる美称として解されてきた天沼琴、天之羅摩船の二例についても、これらが国作り記事の中で現れることを踏まえ、葦原中国平定、天孫降臨を受けて天神が統治する場となる葦原中国が初発となる国作りの段階から高天原側からの意向を取り込もうとする表現であると考察した(令和六年度古事記学会関西例会)。 本発表では、天沼琴が何故国作りに高天原からの関わりをもたらす表現として成り立ち得るのかを明らかにし、天沼琴が『古事記』神話の展開において不可欠な表現であると説くことを本旨とする。 天沼琴は根の堅州国から大穴牟遅神が逃亡する場面で「取持其大神之生大刀与生弓矢、及其天沼琴而、逃出之時、其天沼琴払樹而地動鳴。」と二度現れるのみで琴であるにも関わらず演奏されるといった具体的な働きが見られず、これは共に持ち出した生大刀・生弓矢が武器として八十神討伐に用いられたのと異なる。つまり、これら三種の道具は共に須佐之男命の道具でありながら、大刀・弓矢と琴とには異なる役割を想定する必要がある。それは接頭辞が「生」と「天」とで使い分けられることにも明らかであり、ここで描かれる琴には「天」を冠することが求められていたと考えられる。 仲哀記の天皇が琴を引いて託宣を求める記事や、仁徳記の建内宿禰が寿き歌の片歌を琴を賜わることで託宣を受ける形で歌った記事のように『古事記』における琴には神の託宣を受けるための役割を認めることが出来る。当該の根の堅州国の神話でもそれは同様で、国作りの契機となる須佐之男命による祝福の直前に天沼琴が語られることで、その言葉は琴を介した託宣として表されるのであり、その琴が「天」を冠することでそれが天神からの託宣であることを『古事記』は示しているのだと考える。 一四五番歌左注が意味するもの—「挽柩之時所作」を起点として— 谷 信吾 『万葉集』巻二挽歌は、冒頭にて「有間皇子自傷結松枝歌二首」(一四一・一四二)が提示され、続けて「長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首」(一四三・一四四)、「山上臣憶良追和歌一首」(一四五)が提示される。このように題詞を伴って歌が提示される中で、一四五番歌左注にて「右件歌等雖不挽柩之時所作准擬歌意 故以載于挽歌類焉」という、「右件歌等」がここに掲載される「不都合・異例」を指摘した上で掲載理由を示す「掲載弁明注」(大浦〔二〇二三〕)があらわれる。 高桑〔二〇一六〕は当該左注について、『文選』「挽歌詩三首〔五言〕」李善注所引の崔豹『古今注』における「挽歌」の起源を語る箇所に「使挽柩者歌之」が見えることを根拠に、挽歌の原義である「挽柩之時所作」ではないが、中国古挽歌の「歌意」である「死者の恨みや無念を鎮めようとする強い思い」が歌われた一四一~一四五番歌を「挽歌類」として収載することを「宣言」していると論じる。すなわち、「挽柩之時」を葬送に際して柩を挽く時点と理解しているのである。 しかし巻二挽歌には、例えば「天皇聖躬不豫時太后奉御歌一首」(一四七)のように、「挽柩之時所作」ではないにも関わらず、掲載が弁明されていない歌もある。つまり「右件歌等」は、柩を挽く時点の詠作ではないことが指摘されているのではないと考えられる。では「挽柩之時所作」は何を意味しているのであろうか。 本発表では、巻二挽歌の詠者が死者と夫婦・兄弟・君臣関係のように、死者と共時的な間柄であることを確認し、当該左注がそのような間柄ではない意吉麻呂や憶良の詠作歌(一四三~一四五)を、「雖不挽柩之時所作」と指摘していることを説明する。さらに、「古思ほゆ」(一四四)や「松は知るらむ」(一四五)は、死者である有間皇子と共時的ではないことを自覚しながらも、有間皇子の死を共有しうる者を形象する表現であり、ゆえに意吉麻呂歌および憶良歌が「准擬歌意」の歌として「挽歌類」に掲載されていると論じる。 雄略天皇と「群臣」―『日本書紀』「雄略紀」における吉野蜻蛉野狩猟条の位置づけ― 吉原 美響 『日本書紀』(『紀』)雄略四年秋八月の吉野蜻蛉野狩猟条(以降、当該条)について先行論は、前後に配される二つの葛城山狩猟条(同四年春二月、五年春二月)とともに「雄略天皇の超越性を意図する一連の神話叙述」とする。しかし、雄略紀における当該条の位置づけを考察するにあたり「吉野」、「虞人」、「群臣が応答できない」、という叙述の構成要素が同二年冬十月の吉野縦猟条と共通することは見逃せない。 吉野縦猟条では問いかけに応答しない「群臣」に対して雄略は「大怒」し、君臣間の意思疎通不全が示され、その後四年春二月で、一事主神との交流を通じて雄略に「コト(事・言)」の力があることが明らかにされる。こうした展開を経て、当該条では、「歌賦」できない「群臣」に対し雄略自ら「口号」するのである。『紀』全体の展開において当該条は、後の推古紀の蘇我馬子による上寿歌や皇極紀の野中河原史満による造媛哀傷歌、斉明紀の建王悲傷歌群などの君臣間の歌の在り方の起源と位置づけられていると考えることができるのではないか。「群臣」のしかるべき振る舞いを天皇自らが示すという叙述には、礼楽思想に基づく君臣和楽の理想像の提示というだけでは説明できない、『紀』独自の論理を見出すことができよう。 加えて、当該条の後の十三年夏四月に雄略は「群臣」に「欲設呉人」という意図をもった「歷問」を行う。ここで「群臣」は雄略の問いかけに初めて応答することになる。「歷問」への臣下の応答は皇后の兄の大草香皇子を陥れた根使主の罪が露見する契機であり、雄略紀における君臣関係の展開としても当該条は重要な条と考えられる。 雄略二十三年秋八月の「遺詔」に「共治天下」とあるように、雄略と「群臣」の関係の問題は雄略紀という天皇紀における重要な主題の一つと考えられよう。本発表では「雄略天皇と群臣」に注目して、当該条の雄略紀における位置づけを検討したい。 『万葉集』巻一の見せる「天武持統代」―四四番歌左注の位置から― 山﨑 健太 『万葉集』巻一、四四番歌左注は『日本紀』を引用しながら「朱鳥六年」の持統伊勢行幸を語る。しかしその『日本書紀』引用は離れた二カ所からの引用になっており、明らかに文脈を取り違えて切り貼りしているように見える。この事態を先行諸論は多く「集の左注を加へた人の考違かと思はれる」(沢瀉『注釈』)のように処理してきた。これに対して神野志(二〇一三)は「『日本書紀』そのものではないものが『万葉集』の基盤だったと考える」として別テキストを引用元として合理的な解決を図るが、いずれにせよ「この左注は、年次と事情とをより明確にしようとしたもの」と考える点においてこれまでの理解の枠を脱しない。 本論は『万葉集』巻一左注が、『日本書紀』を引用することで「史実の中に歌を位置づけようとするもの」と理解することの限界性を指摘するところから議論を始めたい。 品田(二〇一七)は二七番歌左注『日本書紀』引用を、その記事を『万葉集』が歌の配列において作り出すコンテキストの中に引き込むことによって全体を構成していくものとして捉え、その上で「天武天皇代」のコンテキストを人麻呂吉野賛歌の表現との対応によって「持統天皇代」が回収するものとして捉えてみせる。 わずか六首しかない「天武天皇代」の後半、吉野にまつわる二五~二七番歌がそのように位置づけられるのであれば、伊勢にまつわる二二~二四番歌も同様の構成をもって「持統天皇代」に回収されていると見るべきではないか。 本論では四〇~四四番が当該左注においてどのように「天武天皇代」二二~二四を回収しうるのかを表現面から論じ、伊勢と吉野において構成される「天武天皇代」全体が「持統天皇代」に正当に回収されているその構造を論じる。 最終的に、「天武天皇代」のコンテキストを包摂する「持統天皇代」が、「藤原京」において実現されているというテキストの構造を示すところまで到達したい。 | |
| 令和七年度 上代文学会 若手の会(学部生・大学院生向け)ご案内【対面開催】参加費無料 | |
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| 日 時 | 二〇二五(令和七)年十一月十六日(日)午前十一時~午後十二時三〇分 |
| 会 場 | 日本大学文理学部 百周年記念館 二階 会議室A |
| 趣旨 | どうして/どうやって研究の道に進んだか 大学での学びの外側には、専門的で広大な学の世界があります。学会はその一つですが、それはどのようなもので、研究する上でどのように活用できるのか。私たちが研究を志したきっかけや今に至る道のり、足しげく通った学会での経験を共有しながら、研究することの魅力や学会の意味を一緒に考えてみたいと思います。大学の内と外をつなぎ、新たな知の世界の広がりを感じてもらえる機会となれば幸いです。 |
| プログラム | Ⅰ.トークセッション 甲斐 温子「大学院に進学した理由」 茂野 智大「『萬葉集』研究を志したきっかけとその後」 鈴木 雅裕「国語科教員になるための学会参加」 コーディネーター 長谷川 豊輝 Ⅱ.交流会 ※昼食は各自でご用意ください。 |