例会案内

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例会案内


二〇二三(令和五年度)上代文学会一月例会 ご案内
日  時 二〇二四年(令和六年)一月二〇日(土)午後二時~午後三時三〇分
会  場 Zoomによるオンライン開催
参加を希望される会員の方は、別途送付の案内状に記載の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。後日、URL等、参加に必要な情報を返信致します。遠方の会員の皆様もぜひご参加ください。
研究発表 『黄泉国訪問譚における漢籍受容 ―『古事記』『日本書紀』との相違を中心に― ○研究発表会終了後、常任理事会をオンラインで開催します。

発表要旨
黄泉国訪問譚における漢籍受容 ―『古事記』『日本書紀』との相違を中心に―

 黄泉国訪問譚は、『古事記』と『日本書紀』神代巻第五段一書第六・第九・第一〇にみられ、上代文献における死者が赴く場所として、これまで検討が重ねられてきた。その中で、「黄泉」という表現を用いるのは、『古事記』と一書第六のみであり、世界観を含めて共通点の多さが指摘されている。一方で、一書第九・第一〇を含めると相違点が多く、『古事記』『日本書紀』の伝承を押し並べて同一説話として扱うことは難しいとの見解も示されている。
 そもそも、「黄泉」は漢語であり、『古事記』『日本書紀』が漢籍の影響を受けながら成立したことは言うまでもない。そのため、黄泉国訪問譚においても、漢籍が示す「黄泉」と上代文献の「黄泉」との一致を検討しなければならない。『古事記』『日本書紀』と漢籍における「黄泉」を比較し、それぞれの文献が描く「黄泉」の世界観を確認することで、「黄泉」の受容態度と、日本独自の世界観が浮き彫りになると考えられる。
 たとえば、『古事記』では、黄泉国の所在が明示されていないが、キタナキ国とされており、そこを訪問したイザナキは禊祓を行う。対して、『春秋左氏伝』に見える「黄泉」は地下にあり、訪問者は禊祓に相当する「沐浴」は行わない。一方で、『礼記』『儀礼』では、死者に接した者は「沐浴」を行うことが記されている。このように、漢籍と『古事記』『日本書紀』における「黄泉」の意味が異なっており、「黄泉」に対する認識の違いが認められる。また、一書第一〇では、黄泉国を「泉国」と表記しており、イザナミが赴く場所という点では「黄泉」と同一視することが可能であるが、漢籍とは異なった表記に独自の認識が表れている。
 このように、「黄泉」という語は漢籍に由来するが、それを地下世界と捉えるか、『古事記』『日本書紀』のように「特定の空間(クニ)」として理解するかでは、世界観の相違があろう。これは、漢籍の世界観をそのまま受容していないことの現れでもある。
 本発表では、『古事記』『日本書紀』と漢籍における「黄泉」を比較することで、遺体への認識を通じて、それぞれの世界観を検討する。また、古代日本における漢籍の受容態度を明らかにするとともに、漢籍にみえない『古事記』『日本書紀』の黄泉国観について考察する。


二〇二三年度(令和五年度) 上代文学会 七月例会 案内
日  時 二〇二三年(令和五年)七月八日(土)午後二時~午後四時三〇分
会  場 Zoomによるオンライン開催
参加を希望される会員の方は、案内状に記載の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。
折り返しURL等、参加に必要な情報を返信致します。遠方の会員の皆様もぜひご参加ください。
研究発表 家持の「山柿之門」と池主の「山柿歌泉」
『萬葉集』における「神代(神の御代)」観 ○研究発表終了後、常任理事会(Zoomによるオンライン開催)を開催します。

発表要旨
家持の「山柿之門」と池主の「山柿歌泉」

 本発表は、『萬葉集』巻十七に収められる、天平十九年三月三日付の大伴家持「更贈歌一首」の書簡文の中の「幼年未逕山柿之門」と、同月五日付の大伴池主の書簡文にある「山柿歌泉比此如蔑」との二つの表現を考察の対象とする。
 平安時代以来『古今和歌集』序の影響により、「山柿」は柿本人麻呂と山部赤人の並称と解釈されてきたが、明治時代に入ると、佐佐木信綱氏は初めてその説に反対し、「山柿」は柿本人麻呂と山上憶良の並称と主張した。一方、折口信夫氏らにより、柿本人麻呂一人説などの意見も主張されてきた。
 昭和三〇年代までの研究の多くは、赤人・憶良の優劣論という主観的な考察に重点が置かれた。それに対して、村田正博氏は「家持における古典意識」という視点から考察し、芳賀紀雄氏は「併称」(並称)を手掛かりにしてそれを論じ、人麻呂一人説の可能性を高めた。一方、鉄野昌弘氏は中国の文学論に言及し、家持は作品の「体」の源流を憶良に求めていたが、「山柿」は憶良ではないと指摘した。
 そこで本発表では、まず並称を手掛かりにし、山柿が並称として成立するかの可能性について検討する。そのうえで、二人の作品における先行歌人の影響を示しつつ、家持が憧れる山柿と池主が理解した山柿の間に齟齬が見られることを確認する。結論としては、家持は幼少期に憶良と交流することがあり、その多数の作品を模倣する一方、憶良と異なる独自性を持つ表現をも作ったため、「山柿」の指す対象を憶良と人麻呂と解釈すれば、書簡文の「未逕山柿之門」の意味に当たらない。家持の作品における人麻呂の影響と書簡文の内容を考え合わせると、家持が至っていないのは「人麻呂の門」と考察される。それに対して、池主は赤人の一部の作品を理解し、家持以上に赤人の表現を継承し、かつ赤人から影響を受けたと思われる表現を積極的に贈答歌に取り込んでいることから、家持書簡における「山柿」を山部赤人と柿本人麻呂の並称と誤解していたと推察される。


『萬葉集』における「神代(神の御代)」観

 本発表は、『萬葉集』における「神代」(「神の御代」なども含む)の語について論じる。「神代」という言葉と「神の御代」という表現とについて、内容面の差異を指摘する研究もある(毛利正守「柿本人麻呂の「神代」と「神の御代」と」)が、それぞれの用法に顕著な違いを認めがたいことや、「神の御代」(一〇六五歌)を反歌で「神代」と言い換えている例がある(一〇六七歌)ことなどによって、すべて同列に扱うと、『萬葉集』にはそれらの語を含む歌が二十二首認められる。そこには中大兄の三山歌、人麻呂・金村・赤人の吉野讃歌、憶良の好去好来歌、家持の教喩史生尾張少咋歌・橘歌・陳私拙懐歌などの著名な歌が多く含まれ、この語は『萬葉集』の中でも長期間にわたって受け継がれた重要な語句の一であると言える。そこで本論では、「神代」(「神の御代」)の語について、まずこの語が持つ基本的な概念を確認し、続いてこの語を含む歌のうちのいくつかを見わたしながら、『萬葉集』における「神代」観の一端を考えてみたい。
 具体的には、まず人麻呂を取り上げる。吉野讃歌(三八歌)の内容を「天皇即神というような抽象的・抑圧的な思想ではない。」とする説(品田悦一「神ながらの歓喜―柿本人麻呂「吉野讃歌」のリアリティー―」)が提示されたこともふまえつつ、本歌の「神の御代」や三〇四歌(人麻呂作歌)の「神代」の意味内容を改めて検討し、また人麻呂歌集二〇〇七歌も見比べて、「人麻呂関係歌の「神代」観」を論じる。続いて「人麻呂以後の「神代」観」として、金村九〇七歌、赤人一〇〇六歌、田辺福麻呂一〇六五・一〇六七歌における「神代」(「神の御代」)の用法について人麻呂関係歌と比較しながら考察し、その後、これらの歌々の表現が家持歌へどのように結びついているかを見極める。以上の考察をとおして、「神代」(「神の御代」)に対する萬葉歌人たちの心意の、継承と変容の様相を明らかにしたい。