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上代文学会-大会


平成28年度 上代文学会大会案内
期  日 平成28年5月14日(土)・15日(日)・16日(月)
会  場 1日目 公開講演会 コラッセふくしま
    JR福島駅(東北新幹線、東北本線、奥羽本線)西口より徒歩3分
    〒960-8053 福島県福島市三河南町1-20
2日目 研究発表会 福島大学
    JR金谷川駅(東北本線、福島駅から二つ目)より徒歩15分
    〒960-1296 福島県福島市金谷川一番地

日  程
― 14日(土) ―
理事会 (午後0時30分~1時30分)   コラッセふくしま4階 401会議室
公開講演会 (午後2時~4時30分)   コラッセふくしま4階 多目的ホール

学会挨拶 挨   拶 古代蝦夷の居住範囲と文化 『出雲國風土記』の副本について
上代文学会賞贈呈式 (午後4時30分~4時40分)
総会 (午後4時40分~5時30分)
懇親会 (午後5時30分~7時30分)
会場 コラッセふくしま12階 展望レストラン Ki-ichigo(きいちご)
会費 7,000円
― 15日(日) ―
研究発表会 (午前9時30分~午後3時40分) 福島大学 L講義棟L―1教室
《午前の部》
英訳を通して見る『古事記』文体の特徴
賀茂真淵『日本紀訓考』の価値―『古事記伝』の影響を考える―
陽明文庫所蔵「古活字本万葉集」の紫による書入訓について―京大本代赭書入との比較から―
 ―昼食―

《午後の部》
「語り継ぎ言ひ継ぎゆかむ不尽の高嶺は」――山部赤人の不尽山歌―― 「不知代経浪」――人麻呂宇治河邊作歌の表記について―― 神ながら栄えゆくべき世界
― 16日(月) ―
臨地研究 ※学会からは特に案内はいたしません。

発表要旨
英訳を通して見る『古事記』文体の特徴   高橋 憲子

 1882年初版『古事記』の英訳本KO-JI-KI or “Records of Ancient Matters” の ”Introduction(序)”の中で、訳者B.H.チェンバレンは『古事記』を日本固有の事実を知る上での重要な書と認め、古代日本の風俗習慣・言語・歴史などの典拠を『古事記』に求めている。その上で、『古事記』の文体については ”no beauty of style” (華美なところがなく)、”queer and bald in Japanese”(奇妙で雅趣のない日本語)と評し、従って英訳もそれに依拠した形になると断りを入れている。『古事記伝』などの注釈書を土台にしながらも原文を遵守した英訳を行うという独自の翻訳方針を貫いたチェンバレンであるが、『古事記』文体のどういう点を奇妙で趣きがない(ぎこちない)と感じたのであろうか。
 まず、『古事記』文体の特徴としては、根底に口頭伝承的要素があることが挙げられる。古伝承・古語を伝えるための音仮名表記も散見する。また表現上では、漢語の利用、漢籍の手法、漢訳仏典の影響が指摘されている。そうした特徴を表わすいくつかの場面を取り上げその原文と英訳を比較検討する。その結果、英文として ”queer and bald” な様相を呈している部分が口承時代の語りの姿、特に神祭の詞章や神との対話の痕跡を残す部分であることを確認する。例えば、「天の石屋戸」段の「天香山之(あめのかぐやまの)五百津(いほつ)眞賢木矣(まさかきを)、根許士爾許(ねこじにこ)士而(じて)〈自レ許(こ)下五字以レ音。〉」” pulling up by pulling its roots a true cleyera japonica with five hundred [branches] from the Heavenly Mount Kagu”では、「賢木」に対する長々しい修辞や音仮名表記された言葉の繰り返しなど口承の名残りを感じさせる原文に対し、英語訳も同様に、”queer and bald” なものになっている。
 小島憲之氏は、繰り返しはホメロスの英雄詩などにも見られるとし、『古事記』の文体をそうした古代的伝承体の一表現として捉え「古事記は世界文学の一環として外に向って示すことができる」(「世界文学としての古事記」1962)と述べている。チェンバレンが ”queer and bald” と言いつつも意訳などを行わず、律儀に原文通りの英訳を行った業績を評価したいと思う。

賀茂真淵『日本紀訓考』の価値―『古事記伝』の影響を考える―   渡邉 卓

 賀茂真淵は晩年に『日本書紀』の訓読作業に取りかかり、『日本紀訓考』を著したとされる。本書は、真淵の訓読態度を知るための資料として重視され、『賀茂真淵全集』(明治三十七年、吉川弘文館)、『増訂 賀茂真淵全集』(昭和六年、吉川弘文館)に収載されている。いずれの底本も、真淵の弟子である内山真龍自筆本の模本(無窮会本)であり、その体裁は『日本書紀』巻一~五までの範囲の本文と訓読文を併記するものである。奥書によれば、巻一・二は真淵の草稿を真龍が補写したとあるが、巻三以降には真淵の名が無く、真龍の名のみ記される。そのため、巻三以降は、真淵の著作としては慎重を期する必要があると考えられる。しかし、これに関して井上豊氏が、「巻三以下にも真淵の草稿があって、それをもとにして真龍が訓読を加えたのだろう」と言及して以来、巻第三以下にも真淵の訓が反映されているとみられてきた。
 真淵の『日本書紀』研究については、幾つかの書簡に記録があり、活動の年月もある程度把握できる。そこで注目されるのが、『日本紀訓考』巻一・二の真淵奥書と同じ年月の奥書を持つ『神代紀注』(國學院大學蔵)である。この体裁は神代巻の本文に仮名で訓を付したものであり、無窮会本とは異なる。また、それだけではなく訓読文そのものにも違いが指摘できるのである。そのため、『日本紀訓考』は巻三以降のみならず、神代巻までも真淵訓ではない可能性があり再検討の必要がある。
 そこで本発表では、この二本の比較・検討を通して、真淵の『日本書紀』研究を明らかにし、『全集』の底本である『日本紀訓考』が真淵の著作ではなく、真龍によるものであると指摘する。なおかつ、その訓読文には真淵と師弟関係にあった本居宣長の『古事記伝』の影響が認められることにも言及する。それによって、国学者間の学問的影響を明らかにするとともに、近世の『日本書紀』研究史を是正したい。

陽明文庫所蔵「古活字本万葉集」の紫による書入訓について―京大本代赭書入との比較から―   大石 真由香

 陽明文庫には「古活字本万葉集」十冊(二十巻)すべてに墨、朱、緑、紫(巻一目録部分のみ黄)で書入が施された本が存する。当該本は補写奥書(禁裏御本奥書部分)の署名の下に校合本に存したと思われる花押をそのまま写しており、当該本の紫による書入は本来花押を持つべき原本である禁裏御本を直接写した可能性が高い。
 現存する『万葉集』諸本の多くは仙覚文永本であり、最初の校訂本である仙覚寛元本として純粋なものは現存しない。古次点の面影を残すとされる寛元本の研究は、不完全な寛元本である神宮文庫本と、中院本系諸本の代赭書入によって行われてきた。ところが、当該本の紫書入を精査することにより、中院本の代表たる京大本の代赭書入のみでは成しえなかった寛元本の復元を高い精度で行うことが可能になる。本発表はこのことを踏まえ、当該本が京大本代赭書入を補う点について指摘するものである。
 田中大士氏は神宮文庫本と京大本代赭書入とを比較し、「神宮文庫本が寛元本的である巻三では京大本代赭書き入れと訓が似ていて、文永本的である巻四では京大本代赭書き入れと訓があまり似ていない」(「万葉集京大本代赭書き入れの性格―仙覚寛元本の原形態―」『国語国文』八十一-八 二〇一二年八月)とされた。当該本紫書入の神宮文庫本との一致は巻三で五九・三%、巻四で三二・三%であり、その傾向は田中氏の論文で示されたものと近似する。しかし、書入訓の数は京大本代赭書入より当該本紫書入のほうが多い。さらに、当該本紫書入と紀州本の訓とを比較すると、巻三では六九・一%、巻四では七五・二%という高い一致率を示す。この結果は当該本紫書入が寛元本の姿を色濃くとどめるものであることを示している。特に神宮文庫本が文永本の特徴を示す巻四で高い一致率を示すことは重要である。
 また、京大本代赭書入には見られない当該本紫書入が神宮文庫本とも紀州本とも一致せず、非仙覚本系の訓とのみ一致する例もある。このことから、禁裏御本には現存の寛元本に残されているものより多くの古訓が書かれていたことが推測される。

「語り継ぎ言ひ継ぎゆかむ不尽の高嶺は」――山部赤人の不尽山歌――   鈴木 崇大

 山部赤人の作の中で最も人口に膾炙しているであろう不尽山の歌(3・三一七~三一八)は、題詞のあり方や歌の表現から「国見歌の系譜に連なる歌」(坂本信幸「赤人の富士の山の歌」、二〇〇一)と言われている。その理解は肯われるが、長歌末尾の讃美表現、「語り継ぎ言ひ継ぎゆかむ」との句には問題なしとしない。
 類語も含め「語り継ぎ」という語は、『万葉集』第三期以降に初めて登場するということが清水克彦氏により指摘されている(「憶良の精神構造」一九六六)。これらの語は、山上憶良に四例、大伴家持に十数例存することから、憶良や家持を論じる際にしばしば取り上げられてきたキータームでもあったのだが、彼等が語り継ごうとしていたのは、主として(氏族の)「名」や神話的な伝承、いわば「語り継ぐ」という営為なくしては消失してしまう〈コト〉であった。しかし、当該歌では、消失の可能性にさらされている〈コト〉ではなくして、不尽山というアヅマの〈モノ〉が「語り継ぎ言ひ継ぎゆかむ」と言われているのである。これは何故か。
 『万葉集』巻三は、当該歌群に次いで、高橋虫麻呂作と覚しい不尽山歌(3・三一九~三二一)を「類を以て」(三二一左注)載せ、その後に赤人の伊予温泉歌(3・三二二~三二三)、同じく赤人の神岳作歌(三二四~三二五)を載せており、巻三の編者が、赤人のこれら三つの歌群をひとまとまりとして捉えていたことが窺える。同時にこれら三歌群は、いずれも土地褒めの讃歌としてあるのだが、その対象がそれぞれアヅマ―ヒナ―ミヤコ(正しくは旧都)となっており、当時の、天皇が支配する国土=〈王土〉の構造的な把握に対応していると読める。そうして赤人は、〈王土〉のそれぞれの位相に応じて讃美の方法を変えたものと考える。不尽山はアヅマの〈モノ〉であるが故に、存在は確かながらミヤコからは遙か遠くの〈モノ〉であるが故に、時空を越えて「語り継げ/告げ」られねばならなかったのではないか。

「不知代経浪」――人麻呂宇治河邊作歌の表記について――   月岡 道晴

 「柿本朝臣人麻呂、近江國より上り来る時に、宇治河の邊に至りて作る歌一首」との題詞を有する、『萬葉集』巻三・二六四歌「物部能八十氏河乃阿白木尓不知代経浪乃去邊白不母」(もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも)には、「網代木」のシロ(乙類ロ)に「白」(甲類ロ)字が宛てられるとともに、「いさよふ」のヨ(甲類)にも「代」(乙類)字が宛てられ、二箇所にわたって上代特殊仮名遣いの違例が見られるにも関わらず、そのことを問題視している先行研究は意外なほど少ない。一首全体に関わって付言するならば、助動詞ズを表わす正訓字「不」を訓仮名「白」に下接して、「白不」と異例の記しかたをしていることも見逃すべきではない(夙に竹尾正子「「去方白不母」考」(『福岡学芸大学久留米分校教育研究所研究紀要』一六、昭四一・四)がこの点に注意している)。おそらく「阿白木」の「白」と「去邊白不母」の「白」は、敢えて一首の内で重ねて「白」字を用いるべく巧まれた文字遣いなのだろうし、「不知代経」もまたそうした文字選択の意識と呼応しつつ、「幾代を経たかわからない」という内容を歌の意味上に重ね書きしているものと推察される。
 つまり此歌の異例の文字表記は一定の意識によって貫かれているものであり、万葉歌が『萬葉集』に記された漢字文字列を通じてのみ読者と繋がり得るものだとするならば――つまり口頭での歌の享受を本来のものとしない限りは、このように顕著な文字列の特質もまた表現の一部として読み取られるべく、歌の書記者によって選び取られたものと考えるのが適切だろう。こうした表記態度――即ち、歌の音を記す側面に対しては比較的頓着せず、文字の表意面により重きを置くありかたは、人麻呂歌集の詩体歌(略体歌)における態度と共通している。此歌の表記のありかたをそのように定位することで、人麻呂作歌と人麻呂歌集との間に共通する表記の特質をも見出すことが可能になるはずだ。

神ながら栄えゆくべき世界   品田 悦一

 前稿「神ながら栄えゆく世界」で『万葉集』巻一・二について考えたことがらを(『文学』二〇一五年五・六月号)、巻三以降、特に巻六と巻十七~二十に及ぼしてみたい。
 定型句「かむながら」には大別して二通りの意味用法がある。①〈神としての性格の顕現としてその行為がなされるさま/ある行為などが、神としてのものであるさま。神の本性のままに。神でおありになるままに〉というものと、②〈不思議な現象や慎むべき人間の行為を神の意志の顕現とみていう場合に用いる/ある状態などが、神の意志のままに存在するさま。神の御心のままに。神慮のままで〉というものである。続日本紀宣命の事例が①に該当することから、従来は『万葉集』の事例も多く①と解される傾向にあったが、前稿では、巻一・二の用例はすべて②と解すべきものであると主張した。同じことが巻三以降の事例にも該当するように思われる。
 巻一・二において、定型句「神ながら」は、神々の意向のままに生成する聖なる秩序の表象となっていた。草壁皇子・高市皇子という皇位継承候補者の相次ぐ死去によって訪れた危機が、そのつど神々のはからいによって回避される。というよりも、たび重なる危機自体が奇しき神慮のなせるわざなのであり、世界を崩壊させてしまうかに見えた凶事がかえって先々の繁栄の呼び水となるというふうにして、万事は人知をはるかに超えた次元で展開する――テキストとしての『万葉集』巻一・巻二には、そういう意味での「神ながら」の歴史が書き込まれていた。 この、「神ながら」の神学とも称すべき世界像は、巻一・二の続編たる巻六では脆くも潰えてしまう。聖武の治世の開始は、神々の意向が天皇を通してまざまざと成就する世界の復活を期待させたにもかかわらず、都が久迩京に遷るころには人臣が天皇を操る世界へと転落し、まつりごとは神々ではなく人が動かしているということが誰の目にも明らかになってしまう。
 他方、巻十七~二十のいわゆる家持歌日誌には、崩壊した天皇秩序を一身に受け止め、あるべき世界を想念のうちに回復しようとした家持の、祈りにも似た悲壮な企てが見出される。



上代文学会-秋季大会


平成29(2017)年度上代文学会秋季大会・シンポジウム ご案内
日  時 2017年11月11日(土)午後2時~5時30分
会  場 二松學舍大学 1号館 201教室
東京都千代田区三番町6-16
(地下鉄東西線、半蔵門線、都営新宿線「九段下駅」2番出口から徒歩8分)
テ ー マ 「大伴家持研究の最前線 ―巻二十を中心として―」

 大伴家持は、1970年代まで「創造において野心的な試みは、ほとんどない」(北山茂夫)、「彼の表現には模倣のあとが著しい」(尾崎暢殃)というように評価は低かった。80年代以降、ニュートラルに作品を分析する機運が高まり、多数の論文著書が出版され評価は大きく変わってきた。
 秋季大会シンポジウムでは、これまでの研究の累積を踏まえつつ、新進から重鎮といわれる四人の研究者の発表と会場を含めた討論によって、大伴家持研究の最前線を示していきたい。
 今回は、万葉集の最終巻にあたり、また家持最終歌も含む巻二十を中心に、その最前線を考える。巻二十は、家持歌以外の作歌・宴席歌・防人歌も含まれ、また「拙懐」「依興」「独」など家持研究のキーワードが含まれる巻である。更に大伴氏の存亡に関わる「橘奈良麻呂の変」時を含む巻でもある。様々な角度から最前線の大伴家持研究が語られるのではないかと考える。
 事前の打ち合わせでも、四氏の考えにはかなりの違いがみられた。当日のシンポジウムでは、会場からの意見も加わり、活発な議論が展開するのではないかと考えている。
パネリスト及び講演題目 巻二十と大伴家持
岡山大学准教授 松田 聡
大伴家持における聖武朝の回想と最終歌の成立―高円歌群の依興歌をめぐって―
國學院大學助教 鈴木 道代
家持「歌日誌」における天候 ―雪と雷―
東京大学教授 鉄野 昌弘
大伴家持の孤独 ―巻二十を中心に―
二松學舍大学特別招聘教授 多田 一臣
(司会 二松學舍大学教授 塩沢一平)
発表要旨

巻二十と大伴家持
松田 聡

 万葉集末四巻が家持歌を軸として概ね日付順に編まれているということは誰の目にも明らかであるが、これら四巻をひとしなみに「歌日記(誌)」と呼ぶことに対しては、なお異論もあるのではなかろうか。それは巻二十をどう捉えるかという問題と直結していると思われる。巻二十は、雑多な歌稿を単に日付順につないだだけの未整理な歌集なのか、それとも、何らかの基準によって編まれた「撰集」なのか、ということである。
 さしあたって表記の問題を措くとしても、巻二十は他の三巻(巻十七~十九)に比して家持以外の作者の歌を非常に多く含んでいるということが目を引く。相対的に家持歌の割合が僅少であることが巻二十の性格を見えにくくしていることは否めないだろう。家持が人づてに入手したと見られるこれらの作を、私は便宜的に「伝聞歌」と呼んできたが、「伝聞歌」と家持との関わりをどう見極めるかは巻二十の把握に深く関わっているのではなかろうか。「伝聞歌」の中には家持との関わりが題詞左注から確認できない作も少なからず見受けられるが、例えば、皇太子大炊王と藤原仲麻呂の肆宴歌(巻二十・四四八六~七)などは、その代表的なものであろう。家持論の視点から見たときに、史実との関係もあって、この歌群などは大いに問題となるものではあるまいか。
  無論、仮に巻二十に何らかの編纂基準があったとして、それを客観的に検証するのは容易なことではないが、巻十七~十九の三巻で繰り返し提示されてきた要素が、巻二十において再び繰り返されているということには注意したい。複数のテーマが繰り返し現れるということが、巻二十を含めて末四巻に「撰集」としてのゆるやかな枠組みを与えているのではないだろうか。「伝聞歌」と家持歌の双方が相まって作り出すその大きな枠組みを、他巻との関わりにおいて考えられないかというのが本発表の目指すところである。
  本発表では、万葉終焉歌(巻二十・四五一六)を視野に入れつつ、右に挙げた諸問題について考察してみたい。また、家持が巻二十に描き出そうとしたことと史実との間の「ずれ」をどう理解すべきかという問題にも言及したいと考えている。

大伴家持における聖武朝の回想と最終歌の成立―高円歌群の依興歌をめぐって―
鈴木 道代

 『万葉集』巻二十は、天平勝宝五(七五三)年より始まる。天平宝字三(七五九)年に『万葉集』が閉じられるまでの六年間の中で、家持は高円野の歌を三度詠んでいる。最初は、巻二十の前半、天平勝宝五年八月に、「二三の大夫等の、各壺酒を提げて高円の野に登り、聊かに所心を述べて作れる歌」を大伴池主、中臣清麿らと詠む。次は、天平勝宝六(七五四)歳七月に「独り秋の野を憶ひて、聊かに拙き懐を述べた歌」を詠むがこれも高円回想の歌である。最後は巻二十の終盤である天平宝字二(七五八)年に、「興に依りて各高円の離宮を思ひて作れる歌五首」を、大原今城、中臣清麿、甘南備伊香らと詠む。
これら高円歌群は、高円が聖武天皇の離宮があった地であることから、聖武天皇や聖武朝を回顧して歌われたことが従来指摘されている。
 天平勝宝元(七四九)年聖武天皇が譲位し、阿倍内親王が即位し孝謙天皇の時代が始まる。藤原仲麻呂が台頭してゆく中で、橘諸兄が薨じた天平勝宝九(七五七)歳に橘奈良麿事件が起こり、奈良麿や大伴古麻呂らが処刑され、大伴池主もこの事件に連座することになる。このような時代の政情の中で、高円歌群が詠まれるのである。特に天平宝字二年の高円歌群は「依興各思高圓離宮處作歌」と記されている。「依興」は家持独自の用語であり、辰巳正明氏が述べるように、中国詩学の六義で言うところの「興」を指し、「歌の言外に作者の何等かの余意が含まれている歌」(『万葉集と中国文学』笠間書院、一九八七年)であると考えられる。
 そこで今回は、高円歌群について、「興」という点から考察を加えた上で、そこに言外の思いを確認し、どのように家持は最終歌へ向かってゆくかについて考えたい。

家持「歌日誌」における天候 ―雪と雷― 
鉄野 昌弘

 奈良朝は、天人相関思想の受容が最も顕著な時代であったと言ってよい。善政の徴として瑞祥が報告され、改元とともに皇位継承の重要な節目となる一方、旱災に際しては、天皇によって自らの薄徳に因るという勅が出され、恩赦・賑給などが行われる。その時代に生きる家持を記録する「歌日誌」にも、当然そうした思想は投影しており、例えば越中時代に旱災を歌った「雲の歌」や、その後の「雨落るを賀する歌」には、東茂美氏らによって、天人相関思想と、それに基づく「喜雨」の詩賦の影響が指摘されている。
 巻二十では、「族を喩す歌」など天平勝宝八歳六月十五日の六首の直後に、十一月五日夜付で「小雷起こり鳴り、雪は庭に落り覆ふ。忽ちに感憐を懐き、聊かに作る短歌」(四四七一)が置かれている。この冬に鳴る雷は、『続日本紀』十二月朔日条にも記され、十月にも朔日条に日食、十六日条に「白気有りて日を貫く」と、明らかな異変が連続する。 五月二日の聖武太上天皇崩御より続く諒闇中、大伴古慈斐らの朝廷誹謗事件以外に目立った混乱はまだ見えないが、翌年三月の道祖王廃太子、六月の奈良麻呂の変に至る、様々な陰謀が進行していたと考えられる時期である。天候の異変は動乱を予告するのであろう。 雷の時は、天皇の侍衛が定められており(6・九四八~九)、古代日本では特に皇室の危機と解されたらしい。家持の題詞は曰くありげな書き方で、「感憐」には聖武崩御や不安定な皇位継承に対する感情が含まれていよう。にもかかわらず、歌は雷に言及せず、雪明かりに照らされる山橘の美しさを想い、土産に採って来たいと歌うのみである。それは先の六月十五日の「病に臥して無常を悲しび、道を修めむと欲ひて作る歌」の「山川のさやけき見つつ道を尋ねな」(四四六八)に通ずる逃避と韜晦である。それが巻二十の家持作歌を特徴づけるのであり、巻末の雪の歌にも、そうした韜晦が含まれていると考えられよう。

大伴家持の孤独 ―巻二十を中心に―
多田 一臣

 巻二十に収められた家持の作には、大きな限界があるように思う。家持の作は、越中時代を中に挟んで、越中以前、越中以後に分けて捉えることができるが、越中以後の家持の作は、巻十九巻末の「春愁三首」(巻十九・四二九〇~九二)を頂点として、あとはなだらかな下降線をたどっているように見える。西郷信綱氏の、よく知られた評言「彼の作品は瓦礫の山なのだが、右三首は一代の秀逸で、この三首をうるのに彼は瓦礫を積んできたともいえるほどである」(西郷信綱『万葉私記』)を肯うわけではないが、たしかにそう評されてもやむをえない面が、とりわけ巻二十の作にはあるように思われる(「春愁三首」以後の作になるが)。
 巻二十に収められた作は、私的な感懐を詠じた歌もあるが、その多くは宴席歌であり、表現史の上で新たな展開を感じさせるような歌はほとんど見られない。
 浮かび上がるのは、次第に逼塞を余儀なくされる時代状況の中、家持が歌の詠作を通じて、時勢に対する慨嘆を次第に顕著にしていることだろう。巻二十の家持の作は、表現論的な読みを貫きたい論者としては甚だ不本意ながら、その背景となる政治的な状況と結びあわせて読むことがどうしても求められるのである。
 以前、「うがらさとせる歌」(巻二十・四四六五~四四六七)を中心に、大伴氏の内部からも孤立した状況に置かれた家持の屈折した精神のありようを探ったことがあるが(多田「大伴家持の歌日誌」『万葉集を読む』〈古橋信孝編〉)、ここではそれをさらに深め、その前後の家持の軌跡を、その詠作を通じてたどることを試みたい。直接には、聖武天皇の離宮が置かれた「高円」という地のもつ意味を考察の出発点としながら、橘奈良麻呂の変前後の政治状況の中で、家持がどのような交友関係を結び、またいかなる歌を詠んでいたのかを見ていく。「高円」、あるいは「独り」「私」「拙懐」、さらには「八千種」などがここでの鍵言葉となろう。



平成29(2017)年度上代文学会秋季大会・研究発表会 ご案内
日  時 平成29年11月12日(日)午後1時~5時
会  場 専修大学 神田校舎7号館3階731教室
研究発表 『琴歌譜』十一月節「歌返」――「御井の上に植ゑつや」を中心に――
関西大学大学院博士後期課程 福原 佐知子
(司会 慶応義塾大学名誉教授 藤原茂樹)
仮想される言語空間――『古事記』における「言向(趣)」をめぐって――
日本大学文理学部 助手 鈴木 雅裕
(司会 聖学院大学教授 渡邉正人)
『古事記』天孫降臨神話の文脈――猿田毘古神を中心に――
國學院大學兼任講師 山﨑 かおり
(司会 日本工業大学教授 工藤 浩)
万葉集東歌の類歌をめぐって
群馬県立女子大学名誉教授 北川 和秀
(司会 早稲田大学教授 高松寿夫)

発表要旨

『琴歌譜』十一月節「歌返」――「御井の上に植ゑつや」を中心に――
福原 佐知子

 『琴歌譜』「歌返」は、『琴歌譜』のみに見られる歌謡である。また、「歌返」の縁記には、「仁徳天皇が八田皇女を恋しく思われて歌った」とあるが、これまで、縁記と「歌返」の歌謡がどのように関わっているのかを論じて解釈したものはない。
 本発表では、「歌返」とその第一縁記との関わりを論じ、恋歌としての解釈を試みる。譜歌詞では、「うゑつしの」が繰り返されており、歌詞においても「小竹」は重要な意味を持っていると考える。
   縁記によれば、「小竹」は八田皇女の比喩であり、その「小竹」を御井に植えることによって、依代として、その御井の聖水に奉仕させるという意味があるのだろう。「淡路の三原の小竹」が歌われているのは、本来は、八田皇女と異母姉妹にあたる淡路御原皇女の比喩であったとも考えられる。この淡路御原皇女も、反正天皇と同じ井の産湯を用いたという伝承が、淡路の史料『淡路常磐草』などに伝わっている。
 『古事記』によると、天皇が結婚する時には、女性に大御酒盞を持たせて献らせるという形式を取っている。応神記では、応神天皇が矢河枝比売に対して、また、応神天皇が皇太子の仁徳天皇に髪長比売を譲る時も、髪長比売に大御酒の柏の葉を持たせて献らせ、仁徳天皇と結婚させた。雄略記では、新嘗祭の時に三重の采女と春日の袁杼比売に大御酒を献らせている。
   同様に、『琴歌譜』「歌返」の場合も、御井に依代としての小竹を持ってきて植えたことは、つまり、その御井の聖水に奉仕させる女性を得たということになるのではないだろうか。しかも、御井の水は、大嘗祭で黒酒白酒を醸造するために重要である。
 『貞観儀式』と『延喜式』によれば、大嘗祭に先立ち、造酒童女が卜定され、造酒童女が神饌親供のための御稲や黒酒白酒に重要な役割を担うことがわかる。
   御井に小竹を植えるとは、井の依代として植えられたのである。それが小竹であるのは、小竹が女性に見立てられ、恋歌にも結びつきやすかったことが考えられる。また、井は、水汲みなどの役割から、女性に結びついて詠まれていることが多い。
 大嘗祭では、御井の聖水は神饌親供に使われ、井は天皇の御代を讃えるためにも詠まれている。その御井の依代となる女性を得た喜びが、『琴歌譜』十一月節の「歌返」に歌われていると考える。


仮想される言語空間――『古事記』における「言向(趣)」をめぐって――
鈴木 雅裕

 『古事記』が語る歴史の中で、「言向(趣)」の用例は計十一例を拾うことが出来るが、用例はテキスト全体にわたって散在しているわけではない。それは、上・中巻の限られた箇所にのみ現れるという、偏在した在り方を示す。それもあって、国内平定のキーワードとしての認識が共有されるのである。しかしながら、国家形成史上、重要な語とは認識されながら、その語に対する理解は定まっていないのも確かであろう。
 「言」の内実は、その一つとして挙げられる。たとえば、かつて本居宣長は「言」は「事」と同義であるとの理解を示した。しかし、用例の上でそれは認められず、現在は文字通り「言葉」と見るのが把握の基点となっている。以後の諸注釈は、多少の違いはあるものの、霊威ある言葉による平定とするのが主流であった。そうした通説化しつつあった理解に対し、神野志隆光は、「向」の検討から言葉を向けさせる意と解し、「言」を服属の言葉と捉えた。また、近年では、言語秩序のない世界に秩序をもたらすとの構造理解が、松田浩によって提示されている。
 以上の挙げてきた理解に対しては、いずれも問題点が指摘されている。「言向(趣)」を把握するためには、先行諸説が取り組んできた「言」の内実を考えてみなければならない。その際、視野に入れておきたいのが、語られる歴史との結びつきである。「言向(趣)」の用例は景行記より後に現れることはない。その点からして、「言向(趣)」の展開は倭建命によって果たされたと見てよい。そして、「言向(趣)」が中巻の綴じ目である応神記までを範囲としないことを踏まえれば、仲哀天皇から応神天皇の御代にかけて終焉の理由を見出す必要がある。
 そこで、仲哀記において始めて存在が明かされる百済・新羅との対外記事、応神記における『千字文』『論語』といった文字文化の渡来が重要な意味を持つと想定される。よって本発表では、そうした「言向(趣)」以後の歴史を視野に入れた上で、「言」の内実を考えてみることにしたい。


『古事記』天孫降臨神話の文脈――猿田毘古神を中心に――
山﨑 かおり

 『古事記』の天孫降臨神話は、皇祖神の地上支配や伊勢神宮創始を語る、非常に重要な意味を持つものであるにも拘わらず、文脈に不明瞭、不審な部分があることが注目される。例えば「此二柱神者、拝二祭佐久々斯侶伊須受能宮一」の「二柱神」がどの神を指すかが分かりづらく、従来説では、鏡と思金神、天照大御神と思金神、天孫と思金神などが挙げられている。「拝祭」とは祭られる神ではなく奉仕する者の行為であるから、鏡や天照大御神とするのは不自然であり、天孫は日向に降臨して伊勢の「伊須受能宮」に赴いた形跡が無いことからこれにも従いがたい。そこで注目したいのは、西郷信綱による、猿田毘古神と天宇受売命とする説である。猿田毘古神は、『古事記』では伊勢の阿邪訶で溺れており、神代紀第九段一書第一でも「伊勢之狭長田五十鈴川上」に到ったとされ、伊勢との繋がりがある。当該神話では、この猿田毘古神と天宇受売命が密接な関係を結ぶ。天宇受売命は猿田毘古神を「送奉」「仕奉」するよう命じられるが、「奉」とは下位者が上位者に奉仕することである。ここには、天つ神の天宇受売命が国つ神の猿田毘古神に奉仕するという不審な文脈がみえ、両者の関係性に検討を要することになろう。
 このように、文脈に不明瞭かつ不審な点を抱える当該神話は、編纂を念頭において考えるべきではないか。例えば、この神話と天の石屋の神話は登場神と神器が共通しているが、「其遠岐斯」という言葉から、元々両神話に直接的な繋がりがあり、それを切り離したことが想定できる。当該神話には、司令神の天照大御神と高木神、天孫の日子番能邇々芸命とその父の天忍穂耳命、先導神の猿田毘古神、随伴神の五伴緒と天忍日命・天津久米命、伊勢神宮祭祀と日向降臨という要素が入り組んでおり、これらを整理してその構造を考える必要がある。本発表では、様々な型の天孫降臨神話を掲載する『日本書紀』を参考にしつつ、特に猿田毘古神に注目しながら、『古事記』の天孫降臨神話の文脈について考察する。


万葉集東歌の類歌をめぐって
北川 和秀

  ①上毛野乎度の多杼里が川路にも子らは逢はなも一人のみして(三四〇五)
  ②上毛野小野の多杼里が安波治にも夫なは逢はなも見る人なしに(三四〇五 或本)
  両歌の前半は音がよく似ており、伝承の過程で生じた異伝であろう。しかし、後半は①は男の歌、②は女の歌であり、こちらは意図的に男女両方がうたえる歌として改作されたのであろう。
  ③上毛野可保夜が沼のいはゐ蔓引かばぬれつつ吾をな絶えそね(三四一六)
  ④入間路の大家が原のいはゐ蔓引かばぬるぬる吾にな絶えそね(三三七八)
 ③は上野国東歌、④は武蔵国東歌である。地名を異にするだけで、両歌は極めてよく似ている。上野・武蔵は隣国同士であり、一方から他方へと伝播したものであろう。両歌に「いはゐ蔓」がよまれているが、沼と原という相違があり、同じ植物かどうか疑わしい。伝播した先の国では、正体不明なまま改作した可能性がある。
  ⑤伊香保風吹く日吹かぬ日ありと言へど吾が恋のみし時なかりけり(三四二二)
  ⑥韓亭能許の浦波立たぬ日はあれども家に恋ひぬ日はなし(一五・三六七〇)
 これは類想歌というべきか。他巻の歌との間で類歌関係にある東歌には東国特有語が現れない傾向がある。畿内の歌の模倣であるが故に東国特有語が用いられないのか、畿内の人間の作なのか。
 東歌には、斯(し)西(せ)抱(ほ)という稀少字母を用いた歌群があり、原資料の表記を留めるものかとされる。
  ⑦吾が面の忘れむ時は国はふり嶺に立つ雲を見つつ偲はせ(三五一五)
  ⑧面形の忘れむ時は大野ろにたなびく雲を見つつ偲はむ(三五二〇)
 両歌はこの歌群に属し、男女の問答歌とみえる。巻十四の原資料にはこの歌は一対のものとして収められていたのではないか。
 こういった類歌や類歌に準ずる歌の分析を通して、東歌の成立について考察したい。


上代文学会-例会


上代文学会 7月例会御案内
日  時 平成29年7月8日(土) 午後2時~5時
会  場 日本大学法学部 本館121講堂[本館2階]
研究発表 弓削皇子への献呈歌―南淵山の残雪― 天穂日命考―古代東国と出雲系―

発表要旨
弓削皇子への献呈歌
   ―南淵山の残雪―


 『万葉集』に収載される柿本人麻呂歌集には、「御食向かふ南淵山の巌には降りしはだれか消え残りたる(九・一七〇九)」という一首がある。天武天皇の皇子である弓削皇子に献じられた歌であり、従来南淵山が視界に入る地で歌会が催された際の嘱目の歌と理解されてきた。確かに対象作品は南淵山の残雪の景を描いた嘱目の歌である訳だが、下二句に「降りしはだれか消え残りたる」と、残雪の景を見たことが疑問で歌われることには注意が必要である。季節にそぐわない、非日常的な美景を南淵山に発見した感動が対象作品の作歌契機となっていることを、この疑問は示しているからである。
 南淵山は、皇極天皇が雨乞いを行ったことで知られる地であり、また、天武天皇の無遮大会が行われた坂田寺の建立地でもある。対象作品が詠まれた当時、朝廷では中央集権国家確立に向けて神祇信仰と仏教信仰とを並行した国家政策が活発に進められていたのであり、この地が霊験あらたかな地として認識されていたことは想像に難くない。殊にその土地に対象作品は「御食向かふ」という枕詞を冠しているのであり、それは歌い手がこの地を神の坐す地と認識し、歌い描いたことの現れである。「御食向かふ」は神饌の音を導く枕詞であるという理解が一般的であるが、その一方で神の存在を彷彿させる語としても理解される。南淵山が水神の坐す、神聖な地として対象作品に意識されていることは、南淵山を舞台とし、残雪の景がここに歌われた意義を明らかにしよう。
 雨雪は水神が司るものであり、南淵山は水神の坐す山である。対象作品には南淵山の水神の存在が強く意識されており、その山の残雪の景を見たことが作歌契機となっているのである。そこからは、残雪の景を南淵山の顕在化した霊威として捉える発想が根底に置かれ、対象作品が詠まれていることが知られる。


天穂日命考
   ―古代東国と出雲系―



 天穂日命は、アマテラスとスサノヲの誓約の場面で御統の瓊から生まれ、後に天孫降臨の際に葦原中国に下るが大己貴神に媚びて三年間復命しなかった。そして、第九段一書第二によれば、国を譲った大己貴神に高皇産霊尊が「汝が祭祀を主らむは、天穂日命、是なり」と命じ、その子武日照命は出雲の神宝を天からもってきたとされる。古事記では出雲臣の祖と書かれる神で、いずれにしても出雲と関係が深い神である。記紀神話の中では、このように反天津神といった立場の神であるが、後の時代には神格が変化すると思われる。
 日本紀竟宴和歌においては、7・8番歌に矢田部公望が「あまのほひかみのみおやはやさかにのいほつすばるのたまとこそきけ」「くさきみなことやめよとてあしはらのくにへたちにしいさをなりけり」、46・47番歌では秦敦光が「あまのほひうけひもしるくあれましてかみのいさをとなりにけるかな」「あしはらのみずほのくににちはやぶるかみむけよとぞあまくだしける」と詠われる。いずれも記紀の内容に準じてはいるものの、良い面が強調され、天神の命に従わなかったという負の側面は語られない。
 一方、古代東国では、この国譲りの場面での武甕槌神・経津主神といった神が鹿島・香取に祀られ、蝦夷対策の一つの呪的守護が求められたりしている。天穂日命も武蔵国の有力な古社の祭神になっており、東国経営に対して国譲りの神や出雲系が重用される傾向がみられる。こうした東国経営の実際が、天穂日命の神格の変化に良い影響を与えたと仮定し、本発表では、日本紀竟宴和歌を手掛かりに、そうした古代東国での出雲系、とくに天穂日命の果たした役目を考えたい。




上代文学会 1月例会御案内
日  時 平成29年1月21日(土)午後2時~5時
会  場 専修大学神田キャンパス 7号館 731教室
研究発表 万葉集終焉歌の主題
鶴見大学准教授  新沢 典子
(司会 多摩大学目黒中学・高等学校教諭 松田 聡)
大伴坂上郎女の「怨恨歌」小考
駒沢女子大学教授 三田 誠司
(司会 実践女子大学教授 池田 三枝子)


発表要旨
万葉集終焉歌の主題

 「新しき年の始め」で始まる歌は万葉集中全四首ある。それより早く、続日本紀天平十四年正月十六日条には「新(あらたしき) 年始(としのはじめ)迩(に) 何(か)久志社(くしこそ) 供奉(つかへまつ)良(ら)米(め) 万(よろづ)代(よ)摩(ま)堤(で)丹(に)」と見え、越中守館集宴における大伴家持作歌「新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが」(⑲四二二九)などは、臣下奉仕の具現たる国司らの新年参賀とその継続を詠うという点で、右の歌謡の主題に通じるところがある。
 また、続紀歌謡の第三句に見える「かくしこそ」の句は、梅花宴の二例を除いては、天平十九年以降の歌に集中し、八例中七例は家持作歌に現れる。うち三例は天皇讃歌の中で「立つ年のはに」(⑲四二六七)「秋立つごとに」(⑳四四八五)といった表現と共に、眼前に展開する状況の反復と継続を希求する文脈を構成する。孝謙天皇代への変わらぬ仕奉を主題とする家持作「吉野讃歌」(⑱四〇九八)には、右の歌謡の「かくしこそ」以下の類似表現が用いられており、かかる歌謡の表現を取り込みつつ天皇の統治と臣下の奉仕を示す行為の継続を詠うことで御代の繁栄と継続を賀すという手法が、家持作歌に存したことが認められる。
 さて、万葉集の末尾に置かれた次の一首は、元日立春と瑞祥たる降雪の重なりをふまえて、吉事のさらなる重畳を言祝ぐ歌であると理解されている。
 三年春正月一日於因幡国庁賜饗国郡司等之宴歌一首
 新(あらたしき) 年乃始乃(としのはじめの) 波(は)都波流(つはる)能(の) 家布敷流由伎(けふふるゆき)能(の) 伊夜之家余其騰(いやしけよごと)(⑳四五一六、家持)
 第五句に見える「余其騰(よごと)」を「吉事」と解すわけだが、ク活用形容詞の一音節語幹が名詞に直に接する例は、万葉集では「狭(さ)織(おり)」(⑪二六二八 一書歌)「利(と)心(ごころ)」(⑪二四〇〇他)など限定的である。「よ」は「吉」でなく「代」の義を表す語なのでないか。
 発表では、淳仁天皇即位の翌年正月一日に詠まれた万葉集終焉歌が、国庁に参集した国郡司らの仕奉とその継承を詠うことで御代累重と繁栄を予祝した讃歌であった可能性について述べたい。

大伴坂上郎女の「怨恨歌」小考

  大伴坂上郎女のいわゆる「怨恨歌」(『万葉集』巻四・六一九~六二〇番)をめぐっては、その「怨恨」の対象となった人物は誰かが議論の中心になることが多かった。藤原麻呂、大伴宿奈麻呂らの名が挙がる一方で、特定の人物を対象とした歌ではないという考えも近年では有力である。
 一方でこの歌の歌柄についても論議がある。題詞には「怨恨」という、かなり主張の強い主題を掲げながら、歌中では怨恨の対象となるはずの相手を直接的に恨む心情表現が乏しいと指摘する向きが多く(「怨恨の歌と題してあるほどの悲痛感が乏しい」『全註釈』など)、作品に「切実さ」を読み取る論調は近年では少なくなっているように思われる。たしかに歌中には「恨む」の語もなく、相手をののしる様子も見えない。しかしながら、相手を恨む心情がストレートに表現されていないことは、この歌の「傷」なのだろうか。この作品における表現の質を検討する必要性がありはしないか。
 その際、注目されるのは、先行研究が多く曖昧さを指摘する、夫の訪れが絶えた原因を「ちはやぶる 神か離けけむ うつせみの人か 障ふらむ」といぶかしむ表現、および、その表現を受けて「通はしし 君も来まさず 玉梓の 使ひも見えず なりぬれば いたも術なみ」と現状を確認する文脈である(後者は、結句の「君が使ひを 待ちやかねてむ」とも深く係わる)。この作品には挽歌と共通する表現が目立つこともすでに指摘されているが、上記の表現は特に挽歌との関連性が強いところであると見受けられる。これらの表現はこの歌にどのような効果をもたらしているか。そもそも、いったい大伴坂上郎女は何を意図してこの歌に挽歌的表現を取り込んだのであろうか。
 本発表では歌中の「使ひ」の意味を中心としながら、先行研究の成果を踏まえつつ改めて「怨恨歌」の文脈そのものを今一度しっかりと押さえることを目的として、考察を展開したい。


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