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上代文学会-大会


平成28年度 上代文学会大会案内
期  日 平成28年5月14日(土)・15日(日)・16日(月)
会  場 1日目 公開講演会 コラッセふくしま
    JR福島駅(東北新幹線、東北本線、奥羽本線)西口より徒歩3分
    〒960-8053 福島県福島市三河南町1-20
2日目 研究発表会 福島大学
    JR金谷川駅(東北本線、福島駅から二つ目)より徒歩15分
    〒960-1296 福島県福島市金谷川一番地

日  程
― 14日(土) ―
理事会 (午後0時30分~1時30分)   コラッセふくしま4階 401会議室
公開講演会 (午後2時~4時30分)   コラッセふくしま4階 多目的ホール

学会挨拶 挨   拶 古代蝦夷の居住範囲と文化 『出雲國風土記』の副本について
上代文学会賞贈呈式 (午後4時30分~4時40分)
総会 (午後4時40分~5時30分)
懇親会 (午後5時30分~7時30分)
会場 コラッセふくしま12階 展望レストラン Ki-ichigo(きいちご)
会費 7,000円
― 15日(日) ―
研究発表会 (午前9時30分~午後3時40分) 福島大学 L講義棟L―1教室
《午前の部》
英訳を通して見る『古事記』文体の特徴
賀茂真淵『日本紀訓考』の価値―『古事記伝』の影響を考える―
陽明文庫所蔵「古活字本万葉集」の紫による書入訓について―京大本代赭書入との比較から―
 ―昼食―

《午後の部》
「語り継ぎ言ひ継ぎゆかむ不尽の高嶺は」――山部赤人の不尽山歌―― 「不知代経浪」――人麻呂宇治河邊作歌の表記について―― 神ながら栄えゆくべき世界
― 16日(月) ―
臨地研究 ※学会からは特に案内はいたしません。

発表要旨
英訳を通して見る『古事記』文体の特徴   高橋 憲子

 1882年初版『古事記』の英訳本KO-JI-KI or “Records of Ancient Matters” の ”Introduction(序)”の中で、訳者B.H.チェンバレンは『古事記』を日本固有の事実を知る上での重要な書と認め、古代日本の風俗習慣・言語・歴史などの典拠を『古事記』に求めている。その上で、『古事記』の文体については ”no beauty of style” (華美なところがなく)、”queer and bald in Japanese”(奇妙で雅趣のない日本語)と評し、従って英訳もそれに依拠した形になると断りを入れている。『古事記伝』などの注釈書を土台にしながらも原文を遵守した英訳を行うという独自の翻訳方針を貫いたチェンバレンであるが、『古事記』文体のどういう点を奇妙で趣きがない(ぎこちない)と感じたのであろうか。
 まず、『古事記』文体の特徴としては、根底に口頭伝承的要素があることが挙げられる。古伝承・古語を伝えるための音仮名表記も散見する。また表現上では、漢語の利用、漢籍の手法、漢訳仏典の影響が指摘されている。そうした特徴を表わすいくつかの場面を取り上げその原文と英訳を比較検討する。その結果、英文として ”queer and bald” な様相を呈している部分が口承時代の語りの姿、特に神祭の詞章や神との対話の痕跡を残す部分であることを確認する。例えば、「天の石屋戸」段の「天香山之(あめのかぐやまの)五百津(いほつ)眞賢木矣(まさかきを)、根許士爾許(ねこじにこ)士而(じて)〈自レ許(こ)下五字以レ音。〉」” pulling up by pulling its roots a true cleyera japonica with five hundred [branches] from the Heavenly Mount Kagu”では、「賢木」に対する長々しい修辞や音仮名表記された言葉の繰り返しなど口承の名残りを感じさせる原文に対し、英語訳も同様に、”queer and bald” なものになっている。
 小島憲之氏は、繰り返しはホメロスの英雄詩などにも見られるとし、『古事記』の文体をそうした古代的伝承体の一表現として捉え「古事記は世界文学の一環として外に向って示すことができる」(「世界文学としての古事記」1962)と述べている。チェンバレンが ”queer and bald” と言いつつも意訳などを行わず、律儀に原文通りの英訳を行った業績を評価したいと思う。

賀茂真淵『日本紀訓考』の価値―『古事記伝』の影響を考える―   渡邉 卓

 賀茂真淵は晩年に『日本書紀』の訓読作業に取りかかり、『日本紀訓考』を著したとされる。本書は、真淵の訓読態度を知るための資料として重視され、『賀茂真淵全集』(明治三十七年、吉川弘文館)、『増訂 賀茂真淵全集』(昭和六年、吉川弘文館)に収載されている。いずれの底本も、真淵の弟子である内山真龍自筆本の模本(無窮会本)であり、その体裁は『日本書紀』巻一~五までの範囲の本文と訓読文を併記するものである。奥書によれば、巻一・二は真淵の草稿を真龍が補写したとあるが、巻三以降には真淵の名が無く、真龍の名のみ記される。そのため、巻三以降は、真淵の著作としては慎重を期する必要があると考えられる。しかし、これに関して井上豊氏が、「巻三以下にも真淵の草稿があって、それをもとにして真龍が訓読を加えたのだろう」と言及して以来、巻第三以下にも真淵の訓が反映されているとみられてきた。
 真淵の『日本書紀』研究については、幾つかの書簡に記録があり、活動の年月もある程度把握できる。そこで注目されるのが、『日本紀訓考』巻一・二の真淵奥書と同じ年月の奥書を持つ『神代紀注』(國學院大學蔵)である。この体裁は神代巻の本文に仮名で訓を付したものであり、無窮会本とは異なる。また、それだけではなく訓読文そのものにも違いが指摘できるのである。そのため、『日本紀訓考』は巻三以降のみならず、神代巻までも真淵訓ではない可能性があり再検討の必要がある。
 そこで本発表では、この二本の比較・検討を通して、真淵の『日本書紀』研究を明らかにし、『全集』の底本である『日本紀訓考』が真淵の著作ではなく、真龍によるものであると指摘する。なおかつ、その訓読文には真淵と師弟関係にあった本居宣長の『古事記伝』の影響が認められることにも言及する。それによって、国学者間の学問的影響を明らかにするとともに、近世の『日本書紀』研究史を是正したい。

陽明文庫所蔵「古活字本万葉集」の紫による書入訓について―京大本代赭書入との比較から―   大石 真由香

 陽明文庫には「古活字本万葉集」十冊(二十巻)すべてに墨、朱、緑、紫(巻一目録部分のみ黄)で書入が施された本が存する。当該本は補写奥書(禁裏御本奥書部分)の署名の下に校合本に存したと思われる花押をそのまま写しており、当該本の紫による書入は本来花押を持つべき原本である禁裏御本を直接写した可能性が高い。
 現存する『万葉集』諸本の多くは仙覚文永本であり、最初の校訂本である仙覚寛元本として純粋なものは現存しない。古次点の面影を残すとされる寛元本の研究は、不完全な寛元本である神宮文庫本と、中院本系諸本の代赭書入によって行われてきた。ところが、当該本の紫書入を精査することにより、中院本の代表たる京大本の代赭書入のみでは成しえなかった寛元本の復元を高い精度で行うことが可能になる。本発表はこのことを踏まえ、当該本が京大本代赭書入を補う点について指摘するものである。
 田中大士氏は神宮文庫本と京大本代赭書入とを比較し、「神宮文庫本が寛元本的である巻三では京大本代赭書き入れと訓が似ていて、文永本的である巻四では京大本代赭書き入れと訓があまり似ていない」(「万葉集京大本代赭書き入れの性格―仙覚寛元本の原形態―」『国語国文』八十一-八 二〇一二年八月)とされた。当該本紫書入の神宮文庫本との一致は巻三で五九・三%、巻四で三二・三%であり、その傾向は田中氏の論文で示されたものと近似する。しかし、書入訓の数は京大本代赭書入より当該本紫書入のほうが多い。さらに、当該本紫書入と紀州本の訓とを比較すると、巻三では六九・一%、巻四では七五・二%という高い一致率を示す。この結果は当該本紫書入が寛元本の姿を色濃くとどめるものであることを示している。特に神宮文庫本が文永本の特徴を示す巻四で高い一致率を示すことは重要である。
 また、京大本代赭書入には見られない当該本紫書入が神宮文庫本とも紀州本とも一致せず、非仙覚本系の訓とのみ一致する例もある。このことから、禁裏御本には現存の寛元本に残されているものより多くの古訓が書かれていたことが推測される。

「語り継ぎ言ひ継ぎゆかむ不尽の高嶺は」――山部赤人の不尽山歌――   鈴木 崇大

 山部赤人の作の中で最も人口に膾炙しているであろう不尽山の歌(3・三一七~三一八)は、題詞のあり方や歌の表現から「国見歌の系譜に連なる歌」(坂本信幸「赤人の富士の山の歌」、二〇〇一)と言われている。その理解は肯われるが、長歌末尾の讃美表現、「語り継ぎ言ひ継ぎゆかむ」との句には問題なしとしない。
 類語も含め「語り継ぎ」という語は、『万葉集』第三期以降に初めて登場するということが清水克彦氏により指摘されている(「憶良の精神構造」一九六六)。これらの語は、山上憶良に四例、大伴家持に十数例存することから、憶良や家持を論じる際にしばしば取り上げられてきたキータームでもあったのだが、彼等が語り継ごうとしていたのは、主として(氏族の)「名」や神話的な伝承、いわば「語り継ぐ」という営為なくしては消失してしまう〈コト〉であった。しかし、当該歌では、消失の可能性にさらされている〈コト〉ではなくして、不尽山というアヅマの〈モノ〉が「語り継ぎ言ひ継ぎゆかむ」と言われているのである。これは何故か。
 『万葉集』巻三は、当該歌群に次いで、高橋虫麻呂作と覚しい不尽山歌(3・三一九~三二一)を「類を以て」(三二一左注)載せ、その後に赤人の伊予温泉歌(3・三二二~三二三)、同じく赤人の神岳作歌(三二四~三二五)を載せており、巻三の編者が、赤人のこれら三つの歌群をひとまとまりとして捉えていたことが窺える。同時にこれら三歌群は、いずれも土地褒めの讃歌としてあるのだが、その対象がそれぞれアヅマ―ヒナ―ミヤコ(正しくは旧都)となっており、当時の、天皇が支配する国土=〈王土〉の構造的な把握に対応していると読める。そうして赤人は、〈王土〉のそれぞれの位相に応じて讃美の方法を変えたものと考える。不尽山はアヅマの〈モノ〉であるが故に、存在は確かながらミヤコからは遙か遠くの〈モノ〉であるが故に、時空を越えて「語り継げ/告げ」られねばならなかったのではないか。

「不知代経浪」――人麻呂宇治河邊作歌の表記について――   月岡 道晴

 「柿本朝臣人麻呂、近江國より上り来る時に、宇治河の邊に至りて作る歌一首」との題詞を有する、『萬葉集』巻三・二六四歌「物部能八十氏河乃阿白木尓不知代経浪乃去邊白不母」(もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも)には、「網代木」のシロ(乙類ロ)に「白」(甲類ロ)字が宛てられるとともに、「いさよふ」のヨ(甲類)にも「代」(乙類)字が宛てられ、二箇所にわたって上代特殊仮名遣いの違例が見られるにも関わらず、そのことを問題視している先行研究は意外なほど少ない。一首全体に関わって付言するならば、助動詞ズを表わす正訓字「不」を訓仮名「白」に下接して、「白不」と異例の記しかたをしていることも見逃すべきではない(夙に竹尾正子「「去方白不母」考」(『福岡学芸大学久留米分校教育研究所研究紀要』一六、昭四一・四)がこの点に注意している)。おそらく「阿白木」の「白」と「去邊白不母」の「白」は、敢えて一首の内で重ねて「白」字を用いるべく巧まれた文字遣いなのだろうし、「不知代経」もまたそうした文字選択の意識と呼応しつつ、「幾代を経たかわからない」という内容を歌の意味上に重ね書きしているものと推察される。
 つまり此歌の異例の文字表記は一定の意識によって貫かれているものであり、万葉歌が『萬葉集』に記された漢字文字列を通じてのみ読者と繋がり得るものだとするならば――つまり口頭での歌の享受を本来のものとしない限りは、このように顕著な文字列の特質もまた表現の一部として読み取られるべく、歌の書記者によって選び取られたものと考えるのが適切だろう。こうした表記態度――即ち、歌の音を記す側面に対しては比較的頓着せず、文字の表意面により重きを置くありかたは、人麻呂歌集の詩体歌(略体歌)における態度と共通している。此歌の表記のありかたをそのように定位することで、人麻呂作歌と人麻呂歌集との間に共通する表記の特質をも見出すことが可能になるはずだ。

神ながら栄えゆくべき世界   品田 悦一

 前稿「神ながら栄えゆく世界」で『万葉集』巻一・二について考えたことがらを(『文学』二〇一五年五・六月号)、巻三以降、特に巻六と巻十七~二十に及ぼしてみたい。
 定型句「かむながら」には大別して二通りの意味用法がある。①〈神としての性格の顕現としてその行為がなされるさま/ある行為などが、神としてのものであるさま。神の本性のままに。神でおありになるままに〉というものと、②〈不思議な現象や慎むべき人間の行為を神の意志の顕現とみていう場合に用いる/ある状態などが、神の意志のままに存在するさま。神の御心のままに。神慮のままで〉というものである。続日本紀宣命の事例が①に該当することから、従来は『万葉集』の事例も多く①と解される傾向にあったが、前稿では、巻一・二の用例はすべて②と解すべきものであると主張した。同じことが巻三以降の事例にも該当するように思われる。
 巻一・二において、定型句「神ながら」は、神々の意向のままに生成する聖なる秩序の表象となっていた。草壁皇子・高市皇子という皇位継承候補者の相次ぐ死去によって訪れた危機が、そのつど神々のはからいによって回避される。というよりも、たび重なる危機自体が奇しき神慮のなせるわざなのであり、世界を崩壊させてしまうかに見えた凶事がかえって先々の繁栄の呼び水となるというふうにして、万事は人知をはるかに超えた次元で展開する――テキストとしての『万葉集』巻一・巻二には、そういう意味での「神ながら」の歴史が書き込まれていた。 この、「神ながら」の神学とも称すべき世界像は、巻一・二の続編たる巻六では脆くも潰えてしまう。聖武の治世の開始は、神々の意向が天皇を通してまざまざと成就する世界の復活を期待させたにもかかわらず、都が久迩京に遷るころには人臣が天皇を操る世界へと転落し、まつりごとは神々ではなく人が動かしているということが誰の目にも明らかになってしまう。
 他方、巻十七~二十のいわゆる家持歌日誌には、崩壊した天皇秩序を一身に受け止め、あるべき世界を想念のうちに回復しようとした家持の、祈りにも似た悲壮な企てが見出される。



上代文学会-秋季大会


平成28(2016)年度上代文学会秋季大会・シンポジウム ご案内
日  時 2016年11月26日(土)午後2時~5時30分
会  場 東京大学本郷キャンパス 文学部法文二号館一番大教室
テ ー マ 「万葉和歌の〈様式〉をめぐって」

 和歌は、『古今集』時代には、かなを用いた縁語・掛詞を主要な武器として理知的な表現を形成し、『新古今集』時代には、先行の和歌を本歌取りすることで、曖昧模糊にして玄妙な歌境を創り出している。では、万葉和歌は、何を原理として自らを成り立たせていたのだろうか。ただ「素朴」というだけでは済まない、草創期の和歌がそもそも持っていた〈様式〉を具体的に照らし出してみたい。
パネリスト及び講演題目 枕詞と様式
専修大学教授 大浦 誠士
萬葉和歌における様式ー序詞をめぐってー
日本女子大学名誉教授 平舘 英子
『万葉集』における「縁語」
東京大学教授 渡部 泰明

(司会 早稲田大学教授 高松寿夫)
◎シンポジウム終了後、常任理事会(於、法文二号館教員談話室)を開催します。
発表要旨

枕詞と様式
大浦 誠士

 万葉集の歌において様式ということを考えようとするとき、避けて通れないのが枕詞の問題である。上代の文献に「枕詞」という用語は見られないものの、「歌の主文脈とは異なる文脈から、ある語を一気に引き出してくる五音句(短句)」という形が、ある様式性を持って存在し、歌の表現の形成にとって重要な役割を果たしていることは確かであろう。今はそのような定義のもと、「枕詞」という用語をあえて用いることとする。
 枕詞について論じようとするとき、しばしばそれが口誦以来のものであることに言及される。それはおそらく想定としては正しいのであろうが、そのような議論は往々にして観念的な議論へと迷い込んでしまう。まずは万葉集に見られる枕詞のありようを確かに捉えてゆくところから始めなければならないだろう。
 万葉集の枕詞を見渡すと、「あしひきの山」「たらちねの母」のような定型性の高いものから、一回的・言葉遊び的なものまで様々であり、しかもその両者が連続的に存在する様子が見て取れる。そしてそのありようは、枕詞が衰退してゆくとされる古今集においても同様である。定型性・様式性の高い枕詞を、一回的・言葉遊び的な枕詞が取り巻くかのように存在し、あたかも星雲の渦巻きのような様相を呈しているのが枕詞であると言ってもよい。そのようなありようが、枕詞を捉えにくいものとしているのであるが、そのような枕詞を捉えてゆくためには、枕詞という様式そのものの問題と、個々の枕詞の様式性の問題とを区別して考えてみることが必要となるように思われる。今回のシンポジウムでは、枕詞という様式を把握した上で、柿本人麻呂の枕詞を取り上げ、様式化してゆく枕詞と様式化してゆかない枕詞の様相を追ってみる。

萬葉和歌における様式ー序詞をめぐってー
平舘 英子

 萬葉和歌における表現形態の中で、序詞と本旨からなる関係は多く前半に景物を提示し、後半でその景物に寄せて心情を表出する方法として把握される。その連接は、音(同音繰返・掛詞)と意義(形容譬喩)による方法としての分析に留まらず、語の形式と文脈的意味という両面からの整理もなされるなど、論議が進んでいる。しかし、萬葉和歌における様式という視点からは、こうした連接の技法だけでなく、序詞が本旨の意味にいかに関与しているのか、すなわちその関係が萬葉和歌における一つの様式として、いかに成立しているのかという検討が必要と考えられる。なお、短歌形式を扱うが、ここでは、様式を意味と表現とを同じくする類型としてある文体とする定義に従う。
 一般に、枕詞と異なる序詞の特徴の一つとして、固定性・慣習性の無いことがあげられるが、萬葉和歌では類似の序詞を持つ類歌も見られる。例えば、「大舟の香取の海にいかり下ろし(慍下)いかなる人か物思はざらむ」(11・二四三六 人麻呂歌集)は、海にいかりをおろした景(序詞)を、イカの音の繰り返しによって「物思ふ」人の心情(本旨)と連接する。イカの音のみからは、序詞と本旨との関係性は見えない。しかし、「いかり」の原文表記「慍」は心中に怒る意である。「いかり」は「怒り」に通じて、その「いかり」を下ろした大海の景の把握は、心の奥底に深く「物思ひ」を懐く心情に共通する。二四三六番歌は、「慍」によって意味と表現とを結びつけてもいる。序詞と本旨とは、連接の方法のみならず、両者の関係を示唆する「いかり下ろし」ということばによって、情感を共通にして把握され、表記はそれを反映している。この表現と意味の在り方には、萬葉和歌における様式の一つの成立を考え得る。一方で、類歌(11・二七三八)は「重石」と表記する。そこで類歌を持つ序詞の考察を中心に、萬葉和歌における様式の在り方を考察する。

『万葉集』における「縁語」
渡部 泰明

 縁語について考えてみたい。古典和歌における縁語の定義は、一筋縄ではいかない。論者や注釈者によって、微妙に異なっている。一般的には、歌中の語Aが、歌中の他の語Bと、歌の意味(文脈)とは別にA・Bの語の間だけの関係性をもつとき、AとBを縁語と呼ぶことが多い。この定義の場合、「歌の意味とは別に」というのが曲者で、これを厳密に考えるかどうかで縁語の範囲は異なってくる。
 たとえば、「長からむ心も知らず黒髪の乱れてけさは物をこそ思へ」(百人一首・待賢門院堀河)の場合、「長からむ(長し)」と「(黒)髪」が縁語であることは、多くの注釈者が認めている。しかし「(黒)髪」と「乱れ」が縁語かどうかとなると、とくにそう認定していない注釈も少なくない。今回は、「(黒)髪」と「乱れ」の関係も十分に縁語の要件を満たしている、というようにその定義をできるだけ緩やかに設定してみたい。というのも、「(黒)髪」「長し」「乱れ」と巧みに配置されているところからすれば、「乱れ」の語も、「(黒)髪」「長し」の連関に連なっていると考えるのが自然だし、そう作者に意識されていただろうと推定されるからである。
 右の例に端的に表れているように、縁語の定義を緩やかに捉えるに際しては、二つのことを前提としたい。ひとつは、作者の創作意識を視野に入れること。作品として出来上がった結果からではなく、言葉の特別な連関をどう作る側が意識したか、をも含め考えたい。もうひとつは、三つ以上の語の関係を重視すること。そこには、歌を歌らしく組み立ててゆく、網の目のような言葉の連想が存在していただろう。
 右のように縁語を考えたとき、『万葉集』にはそうした修辞意識の淵源は見られないのだろうか、見られるとすればどういうものか、というのが今回の問題意識である。



平成28(2016)年度上代文学会秋季大会・研究発表会 ご案内
日  時 平成28年11月27日(日)午後1時~5時
会  場 昭和女子大学 大学一号館五階五S三三教室
研究発表 『懐風藻』に見られる治国術としての無為思想
東京外国語大学大学院博士後期課程 梁 奕華
(司会 早稲田大学教授 高松寿夫)
倭建命による国内平定の意義――天皇との断絶・神話への接続――
日本大学大学院博士後期課程 鈴木 雅裕
(司会 早稲田大学助教 松本弘毅)
同音反復式序詞の考察――万葉集から古今集にかけて――
清泉女子大学非常勤講師 荻野 了子
(司会 専修大学教授 大浦誠士)
中皇命の宇智野の歌――歌の共有をめぐって――
中央大学教授 岩下 武彦
(司会 フェリス女学院大学教授 松田 浩)

発表要旨

『懐風藻』に見られる治国術としての無為思想
梁 奕 華

『懐風藻』には、序文の「旒纊無為、巖廊多暇」をはじめとして、「無為息無事、垂拱勿労塵」(藤原総前「侍宴」)などのように、「無為」「垂拱」などの無為思想に関する表現が見られる。上代日本では中国からの無為思想が受容されていたと考えられる。
 古代中国では、「無為」は思想哲学の要素が含まれる用語として老子によって提起され、諸子百家、特に儒家の論述を経て、帝王術として最上の治国術とされ、「無為の治」は理想的国家像と見なされるようになってきた。政治思想としての「無為」は「何事もしない」という意味ではなく、豊かな内包と外延を持っている。例えば儒家が主唱する徳治政治もその内容の一つである。また「君無為臣有為」が「無為の治」の構図の核心部分であり、君臣和楽もその内容だと考えられる。『懐風藻』に「元首寿千歳、股肱頌三春」(山前王「侍宴」)とあるように、上代人が天皇の治世を賛美する詩句からもこの構図が反映されている。さらに、狩猟活動は君主が有為の賢臣を探してこの構図を実現するという理念と重なり、大津皇子の「朝択三能士、暮開万騎筵」(「遊猟」)からもそれが窺える。唐に至って、太宗の「帝範・崇文」に「宏風導俗、莫尚于文。敷教訓人、莫善于学。……博覧百家、精研六芸、端拱而知天下、無為而鑑古今」とあるように、文治政治も「無為の治」の一環だと考えられる。『懐風藻』の序文や「年雖足戴冕、智不敢垂裳。……然毋三絶務、且欲臨短章」とある文武天皇の「述懐」詩はそういう考え方の体現ではないかと考える。
 以上のように、『懐風藻』の表現を解読するには無為思想を理解することが不可欠だと考え、本発表では、治国術としての無為思想の理論構造を確認した上で、『懐風藻』に見られる無為思想に関する表現を解読し、さらに無為思想が中国的文化国家の建設を企図した上代人の政治思想に如何なる影響をもたらしたかを追求していきたい。


倭建命による国内平定の意義――天皇との断絶・神話への接続――
鈴木 雅裕

 『古事記』中巻で語られる景行天皇の御世は、倭建命による東西の平定を中心に展開していく。以後、国内の平定に関する記事はなく、その眼は朝鮮半島へ向けられることになるが、そうした点を踏まえると、倭建命によって国内の平定は達成されたと見てよい。『古事記』編纂の主軸が邦家の経緯・王化の鴻基を説くところにあることからすれば、国家形成史上、倭建命の事業は語られねばならないものであった。
 ただし、その位置付けについては、問題を残すところもあるように思われる。たとえば、『日本書紀』も均しく日本武尊による平定を記すが、そこでは天皇に派遣される皇族将軍として描かれる。言うなれば、日本武尊の前身として景行天皇の熊襲平定があり、二人は近似する存在として語られる。その一方で、『古事記』倭建命の平定の契機は、兄の大碓命を殺害したことにある。倭建命の性状は、確かに平定を可能にするほどだったが、天皇からは惶れられ、疎外されるものでもあった。そうした倭建命の国内平定は、神武記・孝霊記・崇神記に連なるものとして、発展段階的に天皇の秩序が拡大されるという認識の下で捉えられ、自身で秩序を作り上げながらそこからは疎外される、という二重性が読み取られてきた。
 しかし、倭建命が行った事業を単純に天皇の秩序の拡大という視点で押さえることに問題はないのか。倭建命の平定を成り立たせる御裳・刀剣・石を手渡された伊勢神宮という場は、中巻の中で上巻の神話世界に連なる回路としてある。天皇との関係が断絶した倭建命は、新たに神話世界という文脈に接続されていくことに注目しておきたい。仲哀記での神託が『日本書紀』と違って天下全体の問題に及ぶのは、そうした倭建命の位置付に関わると発表者は考える。天皇から切り離された倭建命の作り上げる天下が天皇のものとして確立するのは、応神天皇の誕生を待たなければならなかったのではないか。倭建命が果たしたのは、天下に天照大御神の神威を普く行き渡らせたことであり、そうした世界を作り上げたことに倭建命の国内平定の意義を見据えるべきと思われる。
 


同音反復式序詞の考察――万葉集から古今集にかけて――
荻野 了子

 序詞の中には、「道の後深つ島山」しましくも君が目見ねば苦しかりけり」(万葉・巻十一・二四二三)のように、序詞部分で提示された語を反復し、それを契機に本旨の文脈に転換するものがある。このような反復式の序詞は、「見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む」(万葉・巻一・三七)のような、序詞の文脈から本旨に比喩的に連接する歌と違い、連接部分の語(太字)が、序詞における意味と本旨における意味とで異なることが多い。よって序詞と本旨を結びつける論理的根拠は希薄であるし、序詞によって皆が共感出来るような普遍的心情を生み出すのは困難とも言える。よって同音反復式序詞は、序詞の始原的あり方と切り離しては考えられない修辞であると言える。例えば、口誦性であるとか、集団的な詠作の場であるとかいった要素であるが、時代の変遷によって、当然そのような歌の環境は変化していく。そのとき、反復式序詞は修辞としての意義をどのように保ってきたのだろうか。まずは、万葉集の中で反復式序詞がその表現を定着させていく流れを追ってみたい。
 次に平安時代に入ってからの序詞について考える。人々の自然観や生活の様相の変化、類歌性の減少など、様々な点で、序詞が詠まれにくい要素が多く生じた。しかし、当時の歌集には意外なほど多くの序詞を見出すことが出来る。三代集、私家集等に見られる序詞と、万葉集とを比較しながら、当時の歌人の序詞への姿勢を見てみたい。本発表では、序詞と本旨の間の論理性が最も希薄な同音反復式序詞が、平安期の和歌にどのように受け入れられていくのか、特に古今集の時代を対象に考察する。



中皇命の宇智野の歌――歌の共有をめぐって――
岩下 武彦

 この歌については、その作者、成立、主題、構成等様々な問題について、論じられ、中皇命は間人皇女であろうこと、また、長歌が伝統的な歌謡の様式に則っているのに比べて、反歌はそういう様式の枠をはみ出した新しさを備えていること、代作という観点ではなく、「歌の共有」という観点から考えるべきであることなど、確かめられたことも多い。しかし、未だに問題が解決されたというには遠く、題詞の「中皇命使間人連老獻歌」について、「中皇命」と「間人連老」とが、この歌にどのように関わっていたのかという点、歌中の「奈加弭」の訓釈、長歌と「反歌」との関係等々、未だ考えるべき問題があると思う。この発表では、1、題詞の問題。2、「奈加弭」の訓釈の問題。3、長歌と「反歌」との関係、の三点について、万葉集の記すところに従いつつ、どう読み解けるか、考えてみたい。1、題詞の問題については、「中皇命」が間人皇女であるとすれば、間人連老との関係についての推測は出来るが、二人がこの歌にどのように関わっていたのかについては、神野志氏が「歌の共有」という観点を提示し、それに基づいて議論されているものの、「歌の共有」という概念そのものも揺れがある段階で、なお考える余地があると思う。2、「奈加弭」の訓釈についても、阪下氏、吉村氏などの考察で固められてきてはいるが、なお確かめる必要があろう。3、長歌と「反歌」との関係についても、稲岡氏が反歌史の展開の中で位置づけようとされたことで、一つの道筋がつけられたように思うが、万葉集がどのような判断で、四番歌を「反歌」と位置づけたかという点などは、未だ考える余地があると思う。以上のような問題につき、及ぶ限り考えてみたい。


上代文学会-例会


上代文学会 7月例会御案内
日  時 平成28年7月9日(土)午後2時~5時
会  場 日本大学文理学部 3号館 3405教室
研究発表 『懐風藻』に見る奉和応詔詩受容
   ―文武天皇と紀古麻呂の詩を通じて―
早稲田大学大学院生 石丸 純一
(司会 東京医科歯科大学准教授 土佐 朋子)
宇遅能和紀郎子伝承の考察
昭和女子大学教授 烏谷 知子
(司会 聖学院大学教授 渡邉 正人)

発表要旨
『懐風藻』に見る奉和応詔詩受容
   ――文武天皇と紀古麻呂の詩を通じて――



 『懐風藻』には文武天皇に「詠雪」と題された詩が、紀古麻呂に「望雪」と題された詩がある。『懐風藻』に「詠―」「望―」と題された詩は少なく、同じ雪をテーマにした両詩の関連に注目される。特に紀古麻呂「望雪」詩は天子の徳を称える辞句の連なりから始まり、その詩の世界に天皇の臨席していることを窺わせる。
 文武天皇「詠雪」と紀古麻呂「望雪」とが関わり合っていることは、取り上げられる詩句にもうかがえる。紀古麻呂詩の叙景表現では、雲、風、雪、天の光、柳絮、雪を喩える蝶や花、春を待つ木といったものが対象となるっているが、これは、文武天皇の「詠雪」の景物に対応している。このような詩句の対応は、中国の奉和応詔詩、例えば同じように「望―」の詩題を持つ唐太宗「春日侍宴望海」及びそれに対する楊師道らの奉和応詔詩などに見られる傾向と共通する。
 紀古麻呂「望雪」は初めに、「無為聖徳」や「有道神功」たる天子の徳により天下太平であることを述べたあとで、「垂拱端坐」して雪を望む場面に入ってゆく。天子が無為に天下を治める様子として「垂拱」はよく用いられるが、「端坐」という語に帝徳賛美の意味は見出しがたい。しかし、例えば許敬宗「奉和行経破薛挙戦地応詔」には、「垂衣」「端拱」の語が見受けられる。この詩は、唐太宗詩に対する奉和である。そこでは、太宗により天下が安泰し天子の徳が行き渡ったことを述べたのちに「垂衣」し「端拱」して、無為にして天下を治めることを言い、然るのちに太宗が今、詩の舞台となっている地を眺めることを述べ始めるという構成になっており、紀古麻呂の詩との類似が認められる。
 このように、文武天皇とそれに対する紀古麻呂の詩が、中国の奉和応詔詩、特に上代日本人が纏まったテキスト(例えば『翰林学士集』)で参考にしやすかった初唐、太宗周辺のそれの手法を学んでいることを検討し、この時期の漢詩創作のあり方の一端を解明してみたい。

 宇遅能和紀郎子伝承の考察

 応神記では応神天皇の治世に先立って次の世代への継承が語られる。仲哀記で天照大神や住吉三神の神託によって即位に至った規範たるべき天皇が、応神記冒頭で「未だ人と成らねば、是愛し」として三皇子の分治を決定し、宇遅能和紀郎子に天津日継を知らすよう詔り別ける。父帝の寵愛が後の皇位継承争いを誘発するように展開していく。吉井巌氏は応神記が「宇遅能和紀郎子の顕彰と大雀命の即位を語るといふ二つの意図が物語の形成の原理となってゐる」(『天皇の系譜と神話』一)と指摘する。
  宇遅能和紀郎子の顕彰は、第四二番歌謡を含んで構成される、天皇と矢河枝比売との結婚による和紀郎子の誕生と、第五一番歌謡を含む大山守命の討伐、その後の大雀命との皇位相譲の伝承によって示される。二つの場面には、結婚の際に「厳餝其家」、また舎人を郎子の替玉とし、「露坐呉床、百官恭敬往来之状」を見せ、大山守に「望其厳餝之処、以為弟王坐其呉床」と思わせる計略に、共に「厳餝」の語が記される。また雄略天皇が「呉床座の神」(第九五番)と称される座具が記され、郎子が両帝に匹敵する存在として描かれていることがうかがえる。反乱鎮圧の能力と情を併せ持ち、長幼を重んじる王としての和紀郎子像が描かれる。第四二番歌謡には、角鹿を起点として楽浪道を経て木幡で嬢子と出会う蟹の道行が歌われ、角鹿の名替えの記事との関連を思わせる。大浦誠士氏は、「至り・着き」系の道行は、地名の列挙に起点・終点の意識が強く、王権に関わる道行は動かない「中心」を持ち、中央への服属儀礼との関わりが予想される(「道行」考『椙山女学園大学研究論集』(人文科学篇)第三二号)と指摘する。あわせて第五一番歌謡の宇治川の伝承は忍熊王の淡海入水伝承と類似した場面設定になっている。
  宇遅能和紀郎子の伝承形成には丸邇氏の氏祖伝承が影響を与えているとされるが、この人物の顕彰は、仲哀記の応神天皇の行動や事件の舞台をなぞり、重ねるような形で語られる特徴があると思われる。本発表では、応神天皇の婚姻譚と大山守命の討伐を中心に、仁徳天皇即位と関わる宇遅能和紀郎子伝承の問題について考察したい。



上代文学会 1月例会御案内
日  時 平成29年1月21日(土)午後2時~5時
会  場 専修大学神田キャンパス 7号館 731教室
研究発表 万葉集終焉歌の主題
鶴見大学准教授  新沢 典子
(司会 多摩大学目黒中学・高等学校教諭 松田 聡)
大伴坂上郎女の「怨恨歌」小考
駒沢女子大学教授 三田 誠司
(司会 実践女子大学教授 池田 三枝子)


発表要旨
万葉集終焉歌の主題

 「新しき年の始め」で始まる歌は万葉集中全四首ある。それより早く、続日本紀天平十四年正月十六日条には「新(あらたしき) 年始(としのはじめ)迩(に) 何(か)久志社(くしこそ) 供奉(つかへまつ)良(ら)米(め) 万(よろづ)代(よ)摩(ま)堤(で)丹(に)」と見え、越中守館集宴における大伴家持作歌「新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが」(⑲四二二九)などは、臣下奉仕の具現たる国司らの新年参賀とその継続を詠うという点で、右の歌謡の主題に通じるところがある。
 また、続紀歌謡の第三句に見える「かくしこそ」の句は、梅花宴の二例を除いては、天平十九年以降の歌に集中し、八例中七例は家持作歌に現れる。うち三例は天皇讃歌の中で「立つ年のはに」(⑲四二六七)「秋立つごとに」(⑳四四八五)といった表現と共に、眼前に展開する状況の反復と継続を希求する文脈を構成する。孝謙天皇代への変わらぬ仕奉を主題とする家持作「吉野讃歌」(⑱四〇九八)には、右の歌謡の「かくしこそ」以下の類似表現が用いられており、かかる歌謡の表現を取り込みつつ天皇の統治と臣下の奉仕を示す行為の継続を詠うことで御代の繁栄と継続を賀すという手法が、家持作歌に存したことが認められる。
 さて、万葉集の末尾に置かれた次の一首は、元日立春と瑞祥たる降雪の重なりをふまえて、吉事のさらなる重畳を言祝ぐ歌であると理解されている。
 三年春正月一日於因幡国庁賜饗国郡司等之宴歌一首
 新(あらたしき) 年乃始乃(としのはじめの) 波(は)都波流(つはる)能(の) 家布敷流由伎(けふふるゆき)能(の) 伊夜之家余其騰(いやしけよごと)(⑳四五一六、家持)
 第五句に見える「余其騰(よごと)」を「吉事」と解すわけだが、ク活用形容詞の一音節語幹が名詞に直に接する例は、万葉集では「狭(さ)織(おり)」(⑪二六二八 一書歌)「利(と)心(ごころ)」(⑪二四〇〇他)など限定的である。「よ」は「吉」でなく「代」の義を表す語なのでないか。
 発表では、淳仁天皇即位の翌年正月一日に詠まれた万葉集終焉歌が、国庁に参集した国郡司らの仕奉とその継承を詠うことで御代累重と繁栄を予祝した讃歌であった可能性について述べたい。

大伴坂上郎女の「怨恨歌」小考

  大伴坂上郎女のいわゆる「怨恨歌」(『万葉集』巻四・六一九~六二〇番)をめぐっては、その「怨恨」の対象となった人物は誰かが議論の中心になることが多かった。藤原麻呂、大伴宿奈麻呂らの名が挙がる一方で、特定の人物を対象とした歌ではないという考えも近年では有力である。
 一方でこの歌の歌柄についても論議がある。題詞には「怨恨」という、かなり主張の強い主題を掲げながら、歌中では怨恨の対象となるはずの相手を直接的に恨む心情表現が乏しいと指摘する向きが多く(「怨恨の歌と題してあるほどの悲痛感が乏しい」『全註釈』など)、作品に「切実さ」を読み取る論調は近年では少なくなっているように思われる。たしかに歌中には「恨む」の語もなく、相手をののしる様子も見えない。しかしながら、相手を恨む心情がストレートに表現されていないことは、この歌の「傷」なのだろうか。この作品における表現の質を検討する必要性がありはしないか。
 その際、注目されるのは、先行研究が多く曖昧さを指摘する、夫の訪れが絶えた原因を「ちはやぶる 神か離けけむ うつせみの人か 障ふらむ」といぶかしむ表現、および、その表現を受けて「通はしし 君も来まさず 玉梓の 使ひも見えず なりぬれば いたも術なみ」と現状を確認する文脈である(後者は、結句の「君が使ひを 待ちやかねてむ」とも深く係わる)。この作品には挽歌と共通する表現が目立つこともすでに指摘されているが、上記の表現は特に挽歌との関連性が強いところであると見受けられる。これらの表現はこの歌にどのような効果をもたらしているか。そもそも、いったい大伴坂上郎女は何を意図してこの歌に挽歌的表現を取り込んだのであろうか。
 本発表では歌中の「使ひ」の意味を中心としながら、先行研究の成果を踏まえつつ改めて「怨恨歌」の文脈そのものを今一度しっかりと押さえることを目的として、考察を展開したい。


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