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上代文学会-大会


新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、今年度大会は、オンライン開催とすることといたします。


2021年度 上代文学会 大会案内
期  日 2021年 5月22日(土)、23日(日)
会  場 オンライン開催(ZOOMを使用)
日  程 ※当日の進行により、時間が前後する場合があります。
― 22日(土) ―
理事会 午後0時30分~1時30分
講演会 午後2時~4時30分

学会挨拶 挨  拶 防人の妻の歌は誰がどこで作ったか 欽明紀を試掘する
上代文学会賞贈呈式 午後4時30分~4時40分
総会 午後4時40分~5時30分
―23日(日)―
研究発表会 午前10時~午後4時30分
《午前の部》(午前10時~)
『万葉類葉抄』における仙覚『万葉集註釈』の受容
応神記ヒボコ系譜をめぐって
―昼食―

《午後の部》(午後1時~)
大伴家持と暦・二十四節気―立春の歌を中心に―
天平勝宝六年の高円独詠歌群―家持における「らむ」の表現をめぐって―

―休 憩―(午後2時40分~2時50分)

国司の詠作―熊凝哀悼挽歌―
新出 静嘉堂文庫所蔵 中山信名自筆「常陸国風土記」写本の基礎的考察
―群書類従本底本の出現―

◇申し込み
・会員の参加は無料です。郵送の大会案内に従ってお申込み下さい
(下記の一般向けURLから申込むことも可能です)。お振込みの必要はありません。

・一般(会員外)の方は初日の公開講演会(と続く上代文学会賞贈呈式)にのみ参加できます。
ご参加をご希望される一般(会員外)の方は、下記の郵便振替口座に1,000円をお振込みになった後に、
https://forms.gle/eGn7PHSewBtP4pxm9からお申込みフォームにアクセスしてお申込みください。

【以下は一般(会員外)の方向けの案内です】
〈お振込み先〉
「上代文学会大会運営委員会」口座番号(ゆうちょ銀行) 01310 - 6 – 111307

〈申し込みに関するお願い〉
郵便局備え付けの郵便振替用紙に、口座番号「01310 - 6 - 111307」・加入者名「上代文学会大会運営委員会」を
記入し、通信欄に「大会参加希望」と記した上で、①住所 ②氏名 ③電話番号 ④メールアドレス ⑤勤務先名および職名 (学生は所属大学または大学院名、および学年)を記入し、大会参加費1,000円をお振り込みください。
お振込みだけでは申込みは完了しません。
入金後、必ず上記URLのお申込みフォームからお申込み手続きをお願いいたします。

大会研究発表要旨
『万葉類葉抄』における仙覚『万葉集註釈』の受容

 『万葉類葉抄』(以下、『類葉抄』)は、『万葉集』の大規模な部類辞書で、延徳三(一四九二)年、後土御門天皇の勅命の下、当時権大納言であった中御門宣胤により編まれた。本抄は全十八巻で、西本願寺本『万葉集』を使用しつつ、長歌を含む『万葉集』の歌を網羅的に採録しており、その歌々には多数の注が書き込まれている点が注目される。この注記全体の五割超を占めるのが仙覚の『万葉集註釈』であり、さらに『万葉集目安』や『詞林采葉抄』なども引用される。仙覚の校訂本を使用し、さらにそこに『万葉集註釈』等の注釈が多く引かれることから、『類葉抄』は室町期の京の『万葉集』研究が、仙覚を中心とする関東の『万葉集』研究の成果を受容したものと位置づけ得るだろう。本発表では、その享受の具体的な様相について、いくつかの視点から考察を行う。
『万葉集註釈』には今日複数の伝本が残されており、その系統や関係性、享受の問題に関し、小松靖彦氏による重要な指摘がなされている。これら先行研究を踏まえ、内容や表記の上から注記の調査を行ったところ、『類葉抄』が参照した『万葉集註釈』は玄覚らの書入れを持つ系統であった可能性が高く、また現存伝本では仁和寺本や国文学研究資料館本などと一致する例が確認できた。また、『類葉抄』における注記は、注釈の部分的な引用を主とし、時に注釈の文言は短く言い換えられ、宣胤の私見も含まれることから、従来の『万葉集註釈』研究においてさほど重要視されずに今日に至るといえる。しかし、換言すればそれらは取捨選択を経た形でもあり、編者宣胤の仙覚説に対する認識を内包するものであろう。仙覚をはじめとする複数の先行注に対し、宣胤がいかなる判断を行っているか、注記の内容を中心に検討を試みる。


応神記ヒボコ系譜をめぐって

 『古事記』におけるオキナガタラシヒメは、開化天皇段の系譜においてその父系の出自を、応神天皇段のアメノヒボコ系譜においてその母系の出自をたどることができる。一方『日本書紀』(神功皇后摂政前紀)ではオキナガタラシヒメの父系の血筋が開化天皇由来のもので、母親の名がカヅラキノタカヌカヒメであることが記されるのみとなっており、ヒボコとの系譜上のつながりには言及されない。さらに『日本書紀』でヒボコ関連記事は垂仁紀に一括して載録されているのに対し、『古事記』が垂仁天皇段にタヂマモリの記事を置きながら、その祖先にあたるヒボコの渡来記事と系譜とを応神天皇段中に載せていることは注目される。
ヒボコの渡来からイヅシヲトメをめぐる兄弟争いまでの記事内容が本来的に応神天皇の事績とほぼ無関係であり、「昔」で記事が開始されること、上巻神話を想起させるような説話的要素を含むことなどから、応神天皇代の出来事として語られたものでないことは従来指摘されている。また、ヒボコの系譜は初代のみ「…娶…生子…」という『古事記』の一般的な系譜叙述形式を採り、以後三代にわたって「此之子…此之子…」と片親(父親)の名のみを表示し、オキナガタラシヒメの曽祖父・祖父・タヂマモリが兄弟として枝分かれする世代と接続している。この叙述形式は、崇神天皇段においてオホタタネコが自身とオホモノヌシとの血縁関係を天皇に奏上する際の発話文中にも確認され、いずれの場合も、「…之子」という形式で父親の名のみをつなぐ三代の系譜が、神話的な出来事を背景に持つ存在と中巻の特定の天皇段に生きる人物とを直線的に接続している。
ヒボコ渡来からイヅシヲトメまでの記事は中巻の時系列から遊離しているようにみえるが、説話記事の中に挟まれたヒボコの系譜においてそれらはタヂマモリやオキナガタラシヒメと接続され、皇統ひいては『古事記』中巻の構想と有機的に関わりを持つこととなる。


大伴家持と暦・二十四節気―立春の歌を中心に―

 大伴家持とその周辺の歌人にみられる、暦や二十四節気に着目した詠歌は、『万葉集』のなかでも特異なものである。立夏と暦月のずれを詠んだ久米広縄公館での宴歌(18四〇六六~九)は平安朝にも類例のない前衛的な歌と評されてきたし、20四四九二の家持歌は年内立春詠の嚆矢であるとされる。このような歌が次々と生み出された背景に、当時における暦の流布があったのはいうまでもないが、そればかりではなく、家持が越中守として当地に赴任し、そこで都とは異なる越中の風土に触れた経験が大きく影響したとの指摘もある。首肯すべき見方であろう。ただし、これらの個々の歌の表現とその解釈については再考の余地があると思われる。本発表では特に、立春をめぐる詠歌に検討を加えたい。
天平宝字元年(七五七)の「十二月十八日於大監物三形王之宅宴歌三首」(20四四八八~九〇)には、三形王・大原今城・大伴家持の歌がみえる。宴の翌日の十九日は立春にあたるとされ、三者の歌は、立春前日に春の到来を待望して詠まれたものとされてきた。しかし家持の歌「あらたまの年行き返り春立たばまづ我が宿に鶯は鳴け」の初二句「あらたまの年行き返り」が、暦年が改まり新年を迎える意の歌句であることを考慮すると、家持の詠歌には、節気における立春を単純に言祝いだもの以上の意図がありはしないだろうか。一方で、宴の四日後に家持が詠んだ歌「月数めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか」(四四九二)は、暦月と立春のずれに着目した一首である。末句の「春立ちぬとか」は、暦の上ではまだ旧年であり冬のはずなのにもう春が立ったというのか、と春の訪れを訝しむ口吻であり、これも年内立春を単に喜んだ歌とはいいがたい。暦年が改まって新年になることを切望する家持歌の表現の背後には、あるいは、この年のはじめの橘諸兄の薨去と、六月に起きた橘奈良麻呂の乱の悲劇の影があるのではないか。当時の政治的状況をもふまえて、これらの立春詠の表現に再検討を加え、当該歌の巻二十における位置づけを考えたい。

天平勝宝六年の高円独詠歌群―家持における「らむ」の表現をめぐって―

 本発表は、天平勝宝六年に「独り秋の野を憶ひ、聊かに拙懐を述べて」作った(左注)という家持の独詠歌群(20・四三一五~四三二〇、以下「当該歌群」)について、「らむ」をめぐる表現史の視点から、これを万葉集の中に位置づけようとするものである。
 当該歌群は、高円の野における大宮人の野遊を主題とするものであるが、「らむ」という語が使用されていることからすれば、詠み手は高円とは離れた場所にいて、「今現在」の野遊の様を想像して詠んでいると理解すべきであろう。しかるに、この時、宮中は諒闇中であり、大宮人の遊覧・遊猟などあるはずもないのである(木下正俊『全注』)。このことは当該歌群の左注に「拙懐」とあることと相まって重要な問題を孕むものであるが、本発表としては、当該歌群が、ありもしない「今現在」の「宮廷行事」を想像して詠むという、かなり特殊な歌群であるということに注目したい。詠法という点から見て、そこには、「留京三首」(1・四〇~二)や、松浦河逍遥歌群における「後人追和之詩」(5・八六一~三)など、複数の源流を認めうるのではないか。
 なお、家持の場合、天平十九年春の病臥の体験が「らむ」をめぐる表現に目を開かせる端緒となったかに見受けられる。この時の家持は、深刻な病臥の体験から「らむ」を用いて都の家族を思う歌を詠んでいるが、それは離れた場所における「今現在」を空想するという営為にほかならないだろう。その直後に、池主との贈答において「らむ」を用い、交友の様を空想しているというのは偶然ではあるまい。病臥という閉塞状況が、家持に様々な光景を「想像」させているという次第なのである。
 当該歌群が、自ら参加し得ない大宮人の野遊の様を想像し、羨望の念を底流させているのは、こうした「らむ」をめぐる表現史を背景にしているのではないだろうか。

国司の詠作―熊凝哀悼挽歌―

 万葉集巻五に所収された山上憶良の「敬下和為二熊凝一述二其志一歌上六首幷序」は、十八歳の青年大伴熊凝の死を悼んだ作で、それに先立って置かれた、大典麻田陽春の「大伴君熊凝歌二首」に「敬和」したもの、とされる。集中に他例のない死の際の青年が親を思うという主題、臨死者の代作という手法について、自身の体験に基づく親子の情への関心、漢籍の代作詩の影響、民衆の死への哀悼が、創作の源泉として指摘されてきた。ただ、漢文序前半部の公文書的な記述は、憶良個人の文学的関心・民衆への共感だけではない契機が考えられよう。
 当該序文と令の記載との類似は既に指摘されているが、なお熊凝の出自、死没地が国・郡名で明記されている点に留意される。大宝令後に制定された国・郡を、題詞・左注で記載することは、集中では、官人の地方赴任地での作、特に憶良を中心とする大宰府圏の作品に偏って見え、中央を意識した記述と考えられる。当該作も、管下の青年が死の間際に親を思い遣ったことを、都へ報ずる意図もあった、と推察される。その意味で契沖『万葉代匠記』(初稿本)が、日本書紀・景行天皇条の、日本武尊が死に臨んで父天皇を慕う叙述を挙げていることは顧慮される。国家を統治する側から、親が子を思う慈愛、子が親を思う孝の精神が宣揚され、憶良は倭歌の形でその要請に応えた、と推察される。
 憶良が部下である陽春の短歌二首に対し、序と長歌・短歌五首からなる大作を成した点も問題とされてきたが、国司である憶良が、官人が民を思い遣る作を作ったことを理想的な治のあり方として重んじ、それ故陽春の作を前置し、自作を、都に示すべき作に「敬和」するものとして掲げた、と考えられよう。本発表では、国司としての創作、という観点から、熊凝の作品を捉え直し、考察する。


新出 静嘉堂文庫所蔵 中山信名自筆「常陸国風土記」写本の基礎的考察―群書類従本底本の出現―

 東京都の静嘉堂文庫に、中山信名自筆の『常陸国誌』稿本六十巻と付録二巻の計六十二冊の写本が所蔵されている(色川三中旧蔵資料)。その最終巻六十二冊目に、常陸国風土記の写本が存在することを確認した。その簡単な書誌を次に紹介する。
袋綴、渋横引き表紙(後付表紙)、縦二十七・五センチ×横十九・一センチ、外題「國誌附尾 常陸風土記 完」内表紙「風土記 太田文 新編常陸誌附尾」、墨付き一丁表に内題「新編常陸國誌附尾巻之一/隅東柳洲/中山信名平四 修/古書部第一/目録/常陸風土記和銅中撰/常陸太田文弘安中成」とある。墨付二十四丁。常陸国風土記は二丁表から十九丁裏まで。字詰めは十行・二十字。
『国書総目録』には、この「国誌附尾 常陸国風土記」(外題による)の名は、「常陸国誌」の項目にも「常陸風土記」の項目にも見えない。ただし、静嘉堂文庫には他にも中山信名自筆の常陸国風土記の写本一本が存在している。それについては飯田瑞穂の詳しい調査があり(「『常陸風土記』の諸本について」、『古代史籍の研究 上』、飯田瑞穂著作集2所収、吉川弘文館刊、二〇〇〇年五月)、今回取り上げる「国誌附尾本常陸国風土記」とは別本であることが確認できる。以上の状況を総合的に判断して、この写本はこれまで知られていなかった常陸国風土記の一写本であると判断される。 本発表では、この新出写本に関する基礎的考察として、
(1)既存の中山信名写本との関係
(2)群書類従本「常陸国風土記」との関係
について考察したいと思う。新出写本は既存本の書入れを多く本文に採用しており、さらにそれを含めて群書類従本系諸本特有の本文と一致する箇所を多く含む。群書類従本は中山信名本を転写したものであることが奥書に明記されており、新出「国誌附尾本常陸国風土記」は、これまでその存在が明らかでなかった、群書類従本の底本であることにほぼ間違いない。




上代文学会-秋季大会


令和2(2020)年度 上代文学会秋季大会
上代文学会・和歌文学会 合同シンポジウムご案内
日  時 2020年11月14日(土)午後1時30分~4時45分
会  場 オンライン Zoom開催(今回の参加は会員に限ります)
詳細は秋季大会の案内状をご参照ください。
テ ー マ 万葉と平安和歌 ―推移をどう見るか―

 現在、上代和歌の研究と中古以降の和歌の研究は深く分断されている。こうした現状がよいと考えている和歌研究者は少ないであろう。しかし、それぞれの領域で膨大な研究が積み上げられているために、部外者には研究状況がつかめない上、そもそも情報が相互に流通しにくい構造になってしまっている。その「壁」をなくすることは不可能と思われるが、少なくとも壁をいくらか低くする努力は必要であろう。
 上代と中古以降とでは、同じ和歌というジャンルとしての連続性があるのはもちろんだが、一方で大きな差異があることも言うまでもない。何が連続し、何が変わっていくのか、お互いの領域に踏み込んで発言していかなくては見えてこないはずである。このシンポジウムでは、双方の研究者が時代を超えて問題提起を行うことで、「壁」の中にいるだけでは気づきにくいことを見いだしていくことを目標としたい。
パネリスト及び講演題目 『古今和歌六帖』が目指したもの―万葉歌を通して―
同志社大学教授 福 田 智 子
夢歌の展開―万葉から王朝和歌へ―
和歌山大学教授 菊 川 恵 三
命令表現の推移 ―万葉から古今へ―
お茶の水女子大学教授 浅 田   徹
「鹿鳴」詩と鹿鳴歌のはざま
立正大学名誉教授 近 藤 信 義
(司会 早稲田大学教授 高松 寿夫)
(司会  千葉大学教授 鈴木 宏子)
発表要旨

『古今和歌六帖』が目指したもの―万葉歌を通して―
福 田 智 子

 『古今和歌六帖』(以下『六帖』)は、十世紀後半の成立とされる、我が国初の類題和歌集である。約四五〇〇首の収載歌のうち、万葉歌が約四分の一を占める。『六帖』の成立時期は『万葉集』の古点時代と重なってくるが、『六帖』本文は、必ずしも『万葉集』の古写本本文と一致しないことが指摘されている。「作歌の手引書を意図したもの」(『新編国歌大観』解題)とされる『六帖』だが、万葉歌の表現にいったいなにが起こっているのか。
 十世紀後半には、『後撰和歌集』が成立し、また、私家集が多く生まれた。比較的長い詞書を有する和歌が多いことから「場の和歌」とも称される。その一方で、『六帖』は、基本的に詠歌状況を記さない。この観点から『六帖』を捉えると、「和歌の詠歌状況からの解放」という『六帖』の役割が見えてくる。
 それは自ずと和歌表現の自立を促すことになろう。詠歌状況が付随しなければ理解しにくい和歌は、表現類型に即して表現を変容させていく。自立した和歌表現は、新たな和歌を詠むときの素材や物語の引き歌としても、より使いやすいものになるだろう。就中、平安期における万葉歌享受は、読みの問題をもはらんでいる。それは万葉時代の訓の追求というよりもむしろ、平安期の風俗や美意識に合わせた解釈と捉え得る。
 十四世紀初頭頃になると、『夫木和歌抄』や『歌枕名寄』では、和歌は出典を伴って分類される。この姿勢はきわめて実証的で、後には江戸期の国学者たち、そして現代の私たち研究者にも、出典考証として引き継がれている。だが、『六帖』の本文については、出典の本文との不一致を「乱れ」として捉えるだけではなく、平安中期という時代性を念頭に置いて、類題和歌集としての『六帖』本文のあり方を捉えてみると、和歌表現の本質が見えてくるのではないか。その柔軟な表現の変容が次の時代の和歌表現を生み出しながら、「平安万葉」として時代をつないでいると位置づけたい。

夢歌の展開―万葉から王朝和歌へ―
菊 川 恵 三

 これまで「夢」をキーワードに、万葉の相聞歌がどのように展開してきたかを考えた。それを踏まえ、王朝和歌(三代集)とどのようにつながり、どのように違うのかを考えてみたい。
 一般に、万葉と古今の夢歌は、「夢の俗信」(相手が自分を思えば夢に現れる)を背景にした「夢に見えこそ」のような相手に訴える歌がなくなる一方で、夢にまで来てくれない嘆や夢路の具体性などに関心が移るとされる。確かに古今集を見ればそうなのだが、同時代の伊勢物語や、次の後撰集に目をやると、夢の出現と相手の思いをうたったものは少なくない。古今集を飛び越えてこれらがつながるのはなぜなのか、またそれらは万葉の夢歌と同じものなのだろうか。
 また、古今集を代表する小野小町の夢歌は、実は古今の夢歌の中では特殊で、用語や発想の点で万葉の夢歌に近いところがある。しかしそれは、後撰集・伊勢物語とは異なり、その根底は古今の歌人達につながることがわかる。いずれも、「夢」というほんの小さな窓からのぞいたものではあるが、和歌文学研究の一助になればと考える。

命令表現の推移 ―万葉から古今へ―
浅 田 徹

 上代和歌と中古和歌とのコミュニケーション機能の違いを考える時、上代では万葉集しか資料がなく、かつ万葉集では詠作の状況を示す題詞が付されている歌が少ないという障害がある。歌自体から、歌の機能の推移を抽出できないだろうか。
 歌の対他的機能を観察できる標識として、命令・禁止の表現を取り上げてみたい。誰かに対して命令したり、禁止したりするのは、歌が他者に対する働きかけの機能を持っていることを示す。実は、万葉集と古今集とを比較すると、命令表現が減少するという先行研究は僅かながら存在している。ただしその数値をどうやって得たのかが明確ではないこと、用例群の内部をさらに細かく分類する必要があると思われることから、改めて調査することにした。
 その際、近年作成・公開された新しいツールとして、国立国語研究所の「日本語歴史コーパス」を用いることにする。ここでは万葉集・古今集ともにすべて品詞分解され、大変有難いことに「活用形」での検索が可能である。これにより、用言の命令形だけをすべて抽出するという作業が、簡単に漏れなく行えるようになった。これに、禁止の「な~(そ)」、禁止の終助詞「な」、願望の終助詞「ね」を加えたものを基礎データとすることにした。
 このうち、人間に対する命令に限定してふるいを掛けると、万葉に対して古今では大きく減少する。直接的なメッセージとしての性質が弱化しているわけである。ほかの事項については現在検討中だが、できればこうした現象が、上代和歌と平安和歌との差異として知られている他の事柄(敬語の減少・朧化された二人称としての「人」の出現など)とどのように関係づけられるかについて考えてみたい。

「鹿鳴」詩と鹿鳴歌のはざま
近 藤 信 義

 「鹿鳴」詩は『詩経』小雅の詩、鹿鳴歌は大和の歌々。「鹿鳴」詩の中核的な思想は、「宴」が君臣相楽の理想的な世界を現出させていくところにあるのだが、日本での享受は多面・多様な文芸環境を開いていった。たとえば、『懐風藻』には渡来の賓客をもてなす宴席詩として「鹿鳴」詩の主題が継承されているが、ほぼ同時代の万葉集には、「鹿鳴」詩を分析的に享受している。たとえば「鹿鳴」詩においては「鹿鳴」は友(賓客)を呼びかける声として捉えられているのだが、万葉の鹿鳴歌は妻(番)を求めて鳴く声として歌われている。その享受の過程には万葉人の自然生態の観察眼があり、「鹿鳴」詩を和文的に翻訳を加えることによって、鹿との取り合わせ(秋萩・花妻・尾花)として捉え直されていった。いわば、鹿鳴歌は「鹿鳴」詩を構成する要素を分析し、モチーフ化して継承・展開していると受け取ることが出来る。
 鹿鳴歌にあって独特の位置にあるのは『日本後紀』に見られる桓武天皇歌(延暦十七年八月北野遊猟)である。これは一首の単独の記録だけではなく、狩猟の記事全体が、宴の主催者伊豫親王との交歓の叙述であり、それは「鹿鳴」詩を基層におきつつ、「鹿鳴」を宴席におけるもてなしのシンボルとして演出を試みているとみえる記事である。当該の桓武歌の意義は、君臣和楽の主題を演劇的に現出したことによって、これが帝王のエピソードとして語り継がれ、ついで古今和歌の鹿鳴歌(三一二・四三九)の根拠として位置付けられだろうと云うところにある。
 こうした事例を踏まえつつ、「推移」という課題を据えて考える機会としてみたい。



令和2(2020)年度上代文学会秋季大会 研究発表会ご案内
日  時 令和二年11月15日(日)午後一時~四時十五分
会  場 オンライン ZOOM開催(今回の参加は会員に限ります。)
詳細は秋季大会の案内状をご参照ください
研究発表 歴史の再編成―叙述から見る『藤氏家伝』の『書紀』改作の方法― 
早稲田大学大学院博士後期課程 楽 曲
(司会 日本工業大学教授 工藤 浩)
山上憶良「日本挽歌」長反歌の構成
東京大学大学院博士後期課程 大島 武宙
(司会 専修大学教授 大浦誠士)
アヂスキタカヒコネ考
福岡女学院大学名誉教授 吉田 修作
(司会 フェリス女学院大学教授 松田 浩)


発表要旨

歴史の再編成―叙述から見る『藤氏家伝』の『書紀』改作の方法―
楽 曲

『藤氏家伝』の藤原鎌足描写(以下「鎌足本伝」)に『日本書紀』の記載と類似する表現が多く見られることは、今日では既に衆知のことである。 かかる類似性をもとにし、先行研究は、両書の関係について様々な見解を呈した。そのうち、矢嶋泉氏はこれまでの先行研究に触れながら、両書の記述の異同を検討し、 こうした異同はすべて「鎌足本伝」が『書紀』を利用する際に、自らの立場に合わせて自由に解体・改変した結果であり、 「共通の原資料や独自資料の差に還元されるべきものではない」と指摘した。氏の結論は、誠に首肯される意見であるが、 しかし史実に沿うか否かはともかくとして、『書紀』に対する「鎌足本伝」のこうした解体・改変は一体どのようなレベルで行われたものだろうか。 この問題について先行研究は主にそれを後の『高橋氏文』・『古語拾遺』などと同類の『書紀』翻案として捉えてきたが、改めて「鎌足本伝」の『書紀』改作の方法を考察してみると、 簡単に類型化できない部分も見える。従って本発表は『書紀』の享受史という視点から、従来の研究でまだ充分に指摘されていない「鎌足本伝」の『書紀』改作の特徴を整理し、 同じく『書紀』の利用が確認できる、『藤氏家伝』の成立前後のほかの文献も参照しつつ、改めて『書紀』の享受史における『藤氏家伝』の位置を検討する。 さらに当時の時代環境において、献上されてから四十年以上を経た正史に対する『藤氏家伝』のこうした改作の意味をも明らかにしたいと思う。


「好去好来歌」再考
富原 カンナ

 遣唐大使丹比広成に送られた山上憶良の「好去好来歌」(万葉集巻五・八九四~六)は、巻十三の人麻呂歌集歌(三二五三~四)と語句の上での共通点が多く、憶良がこの作に倣って創作したことが示唆されている。とりわけ両者の関係から、人麻呂集歌も遣唐使を餞 する作と見て、ともに「言霊」が詠み込まれたことを「「唐国」に対する「日本国」という国家意識に立脚する言語主張」(伊藤博『万葉集の表現と方法上』)とする論考が、当該作の研究に大きな影響を与えている。
但しこの見解については、人麻呂集歌には作歌事情の記載はなく、遣唐使派遣の状況に決定されない点、また集中の他の遣使餞歌には、外国に対する国語の自意識は殆ど詠まれていないことが問題として挙げられる。「好去好来歌」の内容は、むしろ他の遣唐使歌と 同様「無事に行って帰ってきて欲しいと願い、住吉・大和の神に祈る」という常套的な詠みぶりに終始する。
すなわち伝承的儀礼歌に則った歌詠の中で、「言霊」が詠み込まれた創意が考察されるべきであろう。本発表では、先蹤とされる人麻呂集歌の歌意を明らかに し、「言霊」の意味を検証した上で、憶良がそれをいかに取り入れたかを考察する。 「言霊」の語は集中の三作に見え、憶良以外の歌は「相聞」に所収されている。人麻呂集歌は、前の歌群(三二五〇~二)と併せ、旅行く者を送る歌であり、相手の無事を祈願し「言挙げ」も敢えてする、と詠じる中で「言霊」が詠まれている。憶良は「言霊」を詠じた人麻呂集の恋歌に倣い、その形を基に遣唐使派遣に相応しい作と成したと推察される。
近時上野誠氏(「好去好来歌」における笑いの献上」『万葉文化論』)より、当該反歌二首を「待つ女」の歌と捉える論が呈示されたが、一篇を長反歌通じて恋歌仕立の餞歌と見ることで、その見解もより深く把握されるのではないか、と考える。さらに「好去好来」という俗語で題された事由も、親密な間柄の餞歌を示すものとして理解されよう。


山上憶良「日本挽歌」長反歌の構成
大島 武宙

 『万葉集』所収の山上憶良「日本挽歌」は、和歌の前に前置漢詩文を持ち、また一首の長歌に五首の反歌を付すという、 それまでにない構成を持つ。漢文、漢詩、長歌、反歌という異なる形式の表現がどのように関わりあっているかを考えることが、全体の解釈に必要となる。 特に、反歌五首という異例の規模は、後の憶良が集中において五首以上の反歌を試みていることからも、その端緒として重要な意味を持つ。 この五首についてはこれまで、前半三首と後半二首の間に視点や心情の変化があるとする構造の把握が多くなされてきたが、 前置漢詩文から反歌へいたる表現全体を視野におさめるとき、むしろ五首の内部の断層よりも、五首の持つ一貫性が注意されなくてはならないように思われる。 前置漢文の主題のひとつは、仏教的な表現を用いて語られる、月日の経過や状況の変化の迅速さに対する嘆きである。長歌はそれを継承しながら、 「家ならば かたちはあらむを」や「家離りいます」という表現によって、「妹」が奈良の「家」を離れて筑紫に向かったことが、 あたかもそのまま死に直結したかのようにうたっている。反歌はさらにそれを承けて「妹」を失った男の悲哀を述べていると考えられるが、 一首ずつ前後の歌との類似性をたどると、一首目と二首目、二首目と三首目、三首目と四首目、四首目と五首目には互いにそれぞれ異なる共通性が見出だされる。 五首はそのような連鎖的な構成を持ちながら、とまどいや後悔を経て、次第に「妹」の不在を受け入れようとする動きを見せている。 あらゆるものは失われ、また月日の経過は迅速である、という無常の道理は、前置漢文で「蓋し聞く」と示されるような伝聞情報としては、 納得はできないながらも把握されていた。そしてその無常が、妻の死として自分の身を襲ったときに生じてしまう、尽くしがたい嘆きを述べるために、 連鎖的に展開する反歌五首という規模が必要とされたと考える。


アヂスキタカヒコネ考
吉田 修作

 アヂスキタカヒコネは古事記、日本書紀、出雲国風土記などに記述された神で、 出雲のオホクニヌシ(オホナムチ)と胸形三女神の一柱タギリビメとの間の子とされている。 ここでまず出雲と胸形との関係が注意される。そして古事記で当該神は「今迦毛大御神」とあり、「大御神」という敬称で記されていることも注意される。 当該神が「大御神」と称されるにはそれなりの理由があるだろう。  話としては古事記では、アメワカヒコの喪を弔うために来た当該神が、アメワカヒコに容姿が似ているとのことで、 天から下ったアメワカヒコの父や妻にアメワカヒコと見間違えられ、怒ってアメワカヒコの喪屋を剣で切り伏せたのが美濃の喪山となった。 当該神が飛び去った時に、その同母妹でアメワカヒコの妻であったタカヒメ(亦の名はシタテルヒメ)が当該神の御名を顕そうとして歌を歌ったという。 日本書紀神代紀九段正文では、アメワカヒコの喪屋は天に作られ、当該神は葦原中国から天に昇って喪を弔うとする点で、アメワカヒコ、当該神ともに天と地を行き来している。  一方、出雲国風土記仁多郡には次のようにある。御祖命オホナムチは御子の当該神が髭が生えるまで泣き止まずことばが言えなかったので、 御子を船に乗せても効果がなかった。御祖命は御子がことばを言う夢を見、覚めて御子に尋ねると御子が「御津(あるいは御沢)」とことばを発した。 その場所を問うと御子は水の流れている所に到り、沐浴をした。それに従って、国造が朝廷に神賀詞を奏上するに際してはそこで禊をするという。 他方、出雲国造神賀詞には「(大なもちの命)の御子あぢすきたかひこねの命の御魂を、葛木の鴨の神なびに坐せ」とあり、 当該神が倭の葛木にあって「皇孫の近き守神」の一つであるという。 すると、当該神は倭と出雲、そしてさらには出雲と胸形、そして天と地を結ぶ重要な存在と位置付けられ、それらが古事記で「大御神」とされた理由ではないか。

上代文学会例会・秋季大会発表者募集
発表をご希望の方は、例会係(烏谷知子・野口恵子・三田誠司・山﨑健司・渡邉正人)までご連絡ください。
reikai@jodaibungakukai.org

天災・停電などの非常事態でオンライン実施に大きな影響が出た場合には、
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上代文学会-例会


上代文学会 7月例会御案内
日  時 令和元年七月十三日(土)午後二時~五時
会  場 日本大学文理学部 百周年記念館二階 国際会議場
研究発表 安康記の考察―大長谷王子即位前記試論― 人麻呂歌集の献歌―弓削皇子と舎人皇子―

発表要旨
安康記の考察
   ―大長谷王子即位前記試論―


 安康記には、在位中の天皇が弑されるという特異な内容が記されている。父の仇を討つため目弱王によって引き起こされたこの事件は、大長谷王子による敵討ちと諸皇子誅伐へと展開しており、皇子間の争いを数多く記す『古事記』下巻のなかでも際だって多くの皇子たちの衝突が記されている。このような安康記に対するこれまでの研究は、概ね二つの立場から為されてきたことが指摘できる。一つめは目弱王を主体に据えて仇討ちにまつわる文芸性を追求する立場であり、濱田清次氏や三浦佑之氏がこの観点から考察を加えている。もう一方は、安康記を大長谷王子の即位前記と捉え、大長谷王子を中心とした解釈を施す立場である。この立場には、安康天皇固有の物語がほとんどないことから安康記は「雄略即位前記」であると指摘した中西進氏の説をはじめとして、諸皇子の排除=即位の必然性の付与と捉える森昌文氏の説、皇統存続の危機を武勇によって救ったことが即位の必然性へつながったと指摘する阿部誠氏の説、また『古事記』の反乱物語は次期皇位継承者の即位の正当性を語ると捉える立場から、安康記は一貫して「武勇の賢弟・大長谷王子(雄略)の即位の必然」を語っていると論じる矢嶋泉氏の説などが挙げられる。発表者は後者の立場から安康記を理解するものであるが、従来の説では大長谷王子の武勇性のみが大きく取り沙汰され、個々の物語が担う役割が充分検討されてこなかったきらいがある。根臣による讒言であったとはいえ、「等しき族」であることを理由に破綻した若日下王との婚姻が、雄略記に至って再度語られるという展開に目を向けるなら、安康記は大長谷王子が諸皇子のなかで抜きんでた地位へと成長する過程として読み解けるはずである。本発表ではその具体的なさまを、⑴若日下王への求婚譚、⑵黒日子王・白日子王の殺害、⑶市辺之押歯王の難というひとつひとつの物語展開に即して指摘してみたい。


「人麻呂歌集の献歌
   ―弓削皇子と舎人皇子―



 巻九には、人麻呂歌集所出の弓削皇子、舎人皇子への献歌が繰り返し載せられている。これらの歌の意味するところを考察したい。
 雑歌部には舎人皇子に献る二首(一六八三、一六八四)があり、二首共に春の花を詠んでいる。また、弓削皇子に献る歌三首(一七〇一~一七〇三)があり、三首に「雁」の語が共通している。しかし、続く舎人皇子に献る二首(一七〇四、一七〇五)には、共通する主題が見いだしがたい。一七〇四では山霧・川波が詠まれ、一七〇五では結実を待つ歌となっている。この二首に寓意を認めるかについても説が分かれている。一七〇四については寓意を否定し実景と見る説が多く、一七〇五については寓意を認めることが多い。ただ、その寓意がいかなるものなのか、いまだ考察の余地が残されているように思われる。「二首」とまとめられていながら、一方が実景で一方が寓意であるというのは、不自然さが否めない。さらに、続く一七〇六には舎人皇子自身の霧の歌があり、当然一七〇四との関連が考えられる。一七〇四では霧が「茂」というほかにない表現がなされており、一七〇六の「夜霧」も実景として歌う例が萬葉集中にみあたらない。もちろん孤例となる独自の表現をした可能性も否定できないが、三首とも寓意があるゆえの特異な例なのではないか。
 また相聞部にも弓削皇子に献る一首(一七七三)と舎人皇子に献る二首(一七七四、一七七五)が人麻呂歌集所出の三首として並んで載せられている。この三首を同時のものとみる説もあり、弓削皇子・舎人皇子の関係性も考慮する必要があろう。
 人麻呂と天武の皇子との関係(阿蘇瑞枝氏)、人麻呂歌集と巻九の排列(渡瀬昌忠氏)についての詳論もあり、近年も検討がすすんでいるところではあるが、本発表では「献る歌」であることを重視し、歌の意図を見定めたい。




2020年度(令和2年度)上代文学会例会・秋季大会発表者募集
発表をご希望の方は、例会係(烏谷知子・野口恵子・三田誠司・山﨑健司・渡邉正人)までご連絡ください。
例会は七月・一月に開催予定、申込締切はそれぞれ四月十日・九月十日です。
秋季大会研究発表会は十一月に開催予定、申込締切は六月三十日です。
reikai@jodaibungakukai.orgからもお申し込みができます

【交通・アクセス】
◆京王相模原線をご利用の場合
「稲城駅」下車、改札を出て右手方向に進み、2番バス停より「駒沢学園行き」「新百合ヶ丘駅行き」「柿生駅北口行き」のいずれかに乗車約7分。「駒沢学園」下車。
★一つ前の「駒沢学園入り口」で降車されないようご注意ください。
★稲城駅から徒歩では30分近くかかります。バスのご利用をお勧めします。

◆小田急線をご利用の場合
「新百合ヶ丘駅」下車、改札を出て南口方面に進み、階段を降り1階バスターミナル5番乗場より、「駒沢学園行き」「稲城駅行き」「稲城市立病院行き」のいずれかに乗車約20分。「駒沢学園」下車。
★道路状況により時間がかかる場合があります。土曜日はバスの本数が少ないのでご注意ください。

バス時刻表は駒沢女子大学HPの「アクセス」をご参照ください。


二〇二二(令和四年)年度 上代文学会一月例会 ご案内
日  時 二〇二二年(令和四年)一月八日(土)午後二時~三時三〇分
研究発表 「令三軍神」考―『住吉大社神代記』における『日本書紀』利用の問題をめぐって―

発表要旨
「令三軍神」考―『住吉大社神代記』における『日本書紀』利用の問題をめぐって―


 住吉大社の古縁起にして神官津守氏の氏文でもある『住吉大社神代記』(以下『神代記』)については、主に成立年代・成立経緯の問題を中心として研究が進められてきたが、一方で、その内容についての検討は十分にはなされてこなかった。特に『神代記』のうち半分ほどを占める『日本書紀』利用箇所については、坂本太郎氏(「住吉大社神代記について」『国史学』八十九、一九七二年十二月)が下した「書紀の文の衒学的な無計画な転載」「およそまともに本を読んでいる限り書ける文ではない」などの評価に象徴されるように、見るべきものがない部分として軽視される傾向にあったと言える。  これに対して三浦佑之氏(「『住吉大社神代記』の成立と内容」『古代文学』二十一、一九八二年三月)や谷戸美穂子氏(「『住吉大社神代記』の神話世界―平安前期の神社と国家―」『古代文学』三十七、一九九八年三月)は、『日本書紀』からの抄出や改変の中に住吉大社側の積極的な意図を読み取るべきとして、坂本氏とは異なる視点を提示した。そのような三浦氏や谷戸氏の視点は、『神代記』を読む上で重要なものだろう。ただ、そうした観点からの『神代記』研究が、谷戸論以降も盛んに行われてきたとは言い難い。  しかし『神代記』の『日本書紀』利用箇所には、これまで見過ごされてきた重大な問題点がまだ残されている。本発表では、坂本氏が『日本書紀』の無計画な転載の代表例の一つとして断じた、神功皇后摂政前紀の「令三軍曰」を「令三軍神(ヽ)曰」と改変している箇所(二三五・二六九行目)について、「三軍神に令して曰はく」などと読み下して〈神功皇后が神に命令するという不自然な文〉と見なす従来の解釈の誤りを指摘し、当該箇所の改変が『神代記』における住吉大神の〈軍神〉としての位置付けと深く関わる意図的かつ重要な『日本書紀』の読み換えであったことを明らかにする。またそれを端緒として、『神代記』における神話の描き方、そして『日本書紀』利用という営みのあり方を改めて問い直すことを試みる。



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