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上代文学会-大会


新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、今年度大会は対面/オンライン併用で開催いたします。
なお、今後の感染状況によりましては、全面オンラインとなる場合もあります。HPで最新情報をご確認下さい。


2022年度(令和4年度) 大会案内
期  日 令和4年5月21日(土)、22日(日)、23日(月)
会  場 信州大学教育学部(長野(教育)キャンパス)
長野県長野市西長野六のロ(カタカナの「ロ」です。)
※信州大学は市内に複数のキャンパスがありますので、お間違えのないようご注意下さい。
北陸新幹線・しなの鉄道長野駅下車、善光寺口よりバス10分「信大教育学部前」下車。
日  程 ※当日の進行により、時間が前後する場合があります。
― 21日(土) ―
理事会 (午後0時30分~1時30分)
講演会 (午後2時~4時30分)

学会挨拶 大会運営校挨拶 契沖『万葉代匠記』の解釈学をめぐって 和漢比較研究の小径(ささやかなあゆみ)
上代文学会賞贈呈式 午後4時30分~4時40分
総会 午後4時40分~5時30分
―22日(日)―
研究発表会 午前10時~午後4時30分
《午前の部》(午前10時~)
「たまゆら」の変容――万葉歌享受の視点から――
『日本霊異記』の伝と賛――氏族の伝と大安寺の「碑文」体の伝――
―休 憩―

《午後の部》(午後1時~)
『萬葉集』巻一における宇智野遊猟歌――天皇の狩と歌の機能をめぐって――
萬葉集巻十三は替え歌歌集か――類歌性や無名性、歌の接合などから――

―休 憩―(午後2時40分~2時50分)

奇妙な注記とどう付き合うか――『万葉集』をテキストとして読むために
―23日(月)―
臨地研修 ※特にご案内は致しません。

◇懇親会
今年は、懇親会は実施致しません。日曜の昼食の手配も行いませんのでご注意下さい。
◇参加申込
・次からお申込み下さい。例年は大会参加費をいただいておりますが、
今年度はハイブリッド型の開催形式であることから参加費の徴収を行わないことに致しました。
   https://forms.gle/wkdFwYRkzXgRjS2r7

◇令和4年度上代文学会大会オンライン書籍案内
大会の対面/オンラインの併用開催に伴い、例年の出版社による出店と併せて オンライン の書籍案内を 5 月 31日までの期間限定で実施致します。 会場での出店と併せまして、この機会に是非、各出版社名のアイコンをクリックして ご利用下さいますようご案内致します。 書籍購入の方法につきましては、各出版社にお尋ね下さい。 なお、オンラインのみのご案内となる出版社(新典社・漢字情報システム・文学通信)もあります。

花鳥社

塙書房

汲古書院

新典社

漢字情報システム

文学通信

大会研究発表要旨
「たまゆら」の変容――万葉歌享受の視点から――

『万葉集』の言葉がどのように享受されてきたかという問題を考える上で、「たまゆら」は極めて興味深い言葉である。というのも、この言葉は平安期に『万葉集』の「玉響」(11・二三九一)を「たまゆらに」と訓読したことが由来とされ、王朝和歌の世界で享受されていくのだが、その一方で、「たまゆらに」自体も、種々の疑念は持たれつつも、現代の『万葉集』研究において「玉(タマ)響(カギル)」が提唱されるまで、「玉響」訓読の一つとしての存在感を維持し続けたからである。
 さて、平安期の「玉(たま)響(ゆらに)」訓読には玉や金属が触れあって鳴る音を表す「ゆら」との関連が考えられている。ところが、中古・中世の歌学書の「たまゆら」注釈にこのような事柄は全く見出せず、その代わりに「しばし」を主としつつも「久し」「しげし」「わくらば」「まれなり」といった意味が認められる。また、近世の『万葉集』注釈書では『日本書紀』の「手(た)玉(だまも)玲瓏(もゆらに)」「瓊響(ぬなとも)瑲瑲(もゆらに)」を示しつつ「たまゆらに」が玉の鳴る音を表すとした上で、その音がかすかであることから「しばし」の意味が生じたと説明する。
 以上の事柄は先行研究の指摘するところであり、「たまゆら」には二つの転機が存在するのだが、この実態の内実に言及する先行研究は見出せていない。けれども、最初の転機は「たまゆら」が『万葉集』訓読から王朝和歌の歌語へと展開していく契機であり、次の転機は「玉(たま)響(ゆらに)」が上代の『万葉集』訓読として認められていく契機と考えられ、双方の転機とも「たまゆら」が二つの性質を持つに至った重要な事柄であったはずである。 
 そこで、平安期における「玉(たま)響(ゆらに)」訓読の意図を再確認した上で、「たまゆら」に見出せる二つの転機を考察すると、前者には仮名書きの万葉歌の影響が、後者には「玉(たま)響(ゆらに)」に上代文献との関連を見出しつつも中古・中世の「たまゆら」の意味を否定しなかった実情が見えてくる。つまり、「たまゆら」の展開には各々の時代の万葉歌享受が影響しているのだが、その実態は「たまゆら」の意味が明らかになっていったというよりも、その意味が付加されていく過程であったと考えられるのである。



『日本霊異記』の伝と賛――氏族の伝と大安寺の「碑文」体の伝――

『日本霊異記』の「賛」十五例は、従来、「説話末尾に付された結語の一形態」と解されてきた。その本質は、漢文伝の「賛」なのではないか。
 日本古代の「伝」は七世紀中葉から八世紀末、氏族内部で成立した「墓誌」「墓碑」に発祥するが、「墓碑」が碑石に刻まれ、墓の傍らに建てられたという確証は得られない。
 これに対して、氏族を離れた出家者集団「寺院」では、従来の「墓誌」「墓碑」の形式とは異なる中国の「碑文」体の「伝」が、渡来僧の遷化を機に成立した。大安寺では、渡来僧道璿・菩提僊那が遷化した天平宝字四年(七六〇)以降の約十五年間に三つの「碑文」が成立する。①「天平宝字年中(七五七~七六五)」在俗弟子の吉備真備撰『道璿和上伝纂』佚文(最澄撰『内証仏法相承血脈譜』所引)に「自余行迹、具載碑文。其前序云」と引く道璿の「前序」を伴う「碑文」、②神護景雲四年(七七〇)弟子修栄撰『南天竺婆羅門僧正碑并序』、③宝亀六年(七七五)淡海三船撰『大安寺碑文』である。このうち、②は菩提遷那の「影像」「形像」に対する「像賛」六篇と長文の「序」から成る。「碑文」体の「伝」とは、「肖像」に対する「賛」を本文とし、その「序」が長文の「伝」であった。淡海三船撰の鑑真伝『唐大和上東征伝』巻末詩群も、伝末尾に付載された「賛」と解されよう。
 この伝統は、空海の帰朝に際して、師の恵果が曼荼羅とともに宮廷絵師に制作させた大同元年(八〇六)空海将来「真言五祖師画像」と空海撰「碑文」を経て、天長五年(八二八)空海撰『故僧正勤操大徳影讃并序』に受け継がれた。勤操没後約一年を経て、勤操の檀像の完成を機に、大安寺の弟子僧の依頼による「序」「偈」から成る「碑文」体である。
 後藤昭雄氏は平安朝漢詩文の「讃の文学」の系譜を指摘し、『勤操讃』を空海撰の高僧の碑文・讃文の先蹤とされた。しかし、その伝統は夙く八世紀後半の大安寺の「碑文」体の高僧伝にさかのぼる。その同時代に成立した『日本霊異記』の「賛」について、「伝」の「賛」という観点から検討を加える。


『萬葉集』巻一における宇智野遊猟歌――天皇の狩と歌の機能をめぐって――

本発表は、舒明天皇の内野(宇智野)遊猟時に中皇命が間人連老を使者として献上した歌とされる『萬葉集』巻一収載の三・四番歌を考察の対象とする。
 当該歌に関するかつての研究においては、題詞に「御歌」ではなく「歌」と記される作者を誰と考えるか、天皇の狩場である宇智野と歌の詠まれた場所との位置関係をどう捉えるか、「中弭」とは何か、またその音は獲物を射る音なのか鳴弦の音なのか、あるいはその狩は薬猟のために行われたものであったのか否か、などの歌の歌われた状況や実態にかかわる諸問題に関する議論が積み重ねられてきた。こうした議論は、初期万葉の時代における歌の共有の機能、当該歌の持つ予祝的性質や弓の呪的性質、そしてまた、歌の歌われる場のありようなどの解明に寄与し、一定の成果を上げてきたと言える。
 しかし、われわれに現前しているのは、梶川信行の一連の研究が指摘するように、八世紀のテキストたる『萬葉集』の上に定位せられたものであり、八世紀の視座から捉えられた《初期万葉》の歌であるということは、当該歌を理解する上で欠かすことのできない点であろう。
 そこで本発表では、『萬葉集』の巻一というテキストにおいて、当該歌が編纂当時にとっての「近代」の初発たる舒明朝のものとして置かれていること、そして、それが儀礼のただ中にある天皇自らを詠歌主体とする国見の歌とあわせて配されていることを手掛かりに、国見とともに語られる天皇の遊猟が、当時にあってはいかなる意義を持つのかという点を確認した上で、その天皇の遊猟をその場にはいない詠歌主体が「なり(聴受)」・「らし(根拠のある推定)」を用いながら感受するという歌を献上することが、いかなる機能を持つのかということを論じ、それが『萬葉集』が措定する「近代」の初めの天皇の御代として持つ意味を提示することとしたい。


萬葉集巻十三は替え歌歌集か――類歌性や無名性、歌の接合などから――

集中最多の長歌を収める『萬葉集』巻十三は、賀茂真淵『萬葉考』以来、この巻が古態を留めるか否かを中心に論じられてきた。近代以降では五味保義「万葉集巻十三考」(『国語国文の研究』二二、昭三・六)が「巻十三の長歌は謡ひものから創作へうつる過渡期の姿…(中略)…巻全体として歌の伝来の古さを思ふ」として、対句などの修辞上の特徴や、長歌結末句の破調、また問答体などの歌謡形式などから記紀歌謡に通じる「極めて古い」質を認め、遠藤宏「長歌考――万葉後期の成立と思われるものについて」(『古代和歌の基層』平三、笠間書院)も「古態を示す要素」として、①反歌を伴わない、②末尾形式の不整理、③不整音句の多さ、④句数の少ない長歌、⑤記紀歌謡との発想の類似及び類歌・類句関係を指摘している。但し五味論でも、それが「伝来の古さ」とされることに注意を要しよう。五味は「反歌がその本歌たる長歌の作者と、同一手に出ないものがある。所謂「後人」の附加がある」とも述べ、遠藤も巻全体としては第三期以降の営為とみられると述べている。近年巻十三について精力的に論文を発表する垣見修司も、「巻十三の歌は、いわば古さと新しさの間で揺れ動いてきた」と研究史を総括する(「『萬葉集』巻十三の編纂」(『国文学』九二、平二〇・三、『万葉集巻十三の長歌文芸』令三、和泉書院所収))。先行研究が後人の「附加」(五味)や古伝の長歌の「仕立て直し」(大久間喜一郎)、「擬古の文芸」(上野誠)などと評価してきたこの巻の「古さと新しさ」を、本発表では「替え歌」と捉え返してみたい。こう考えることで古さと新しさが重なっている点だけでなく、巻十三長歌に特徴的な類歌性や作者の無名性、また何首もの歌が一首に接合される現象などが説明可能になると思われるのだ。発表者にはかつて研究ノートという形式で「替え歌歌集としての萬葉集巻十三」(『滝川国文』三二、平二八・三)があるが、本発表ではこのノートを土台に置きながら、なお新しい知見をそこに付け加えてゆきたい。


奇妙な注記とどう付き合うか――『万葉集』をテキストとして読むために

『万葉集』の歌の左注や題詞下注には、なまじそれがあるせいで歌の理解が渋滞をきた すような記載が散見する。なんのつもりで記したのかおよそ腑に落ちないようなものさえ ある。こうした不可解な、あるいは不得要領な注記は、従来、編纂の特殊な経緯の痕跡と 見なされて、それらを手がかりに詠作の場や原資料の状態などが推測されてきた。 この種の推測は、しかし、現存する物事から現存しない物事へ向かう作業だから、完全 な確実さに到達することはまず期待できない。つまり、元はこうだったろうと推測される 場合でも、そうでなかった可能性を払拭しきれない――編纂論ないし成立論にとって、これはどこまでも付きまとうもどかしさだと思われる。 従来のとは違う付き合い方を提案しよう。題詞や左注を歌本文に対する側(パラ)テキスト(paratexte)と捉え、それらのもたらす情報をテキスト理解に繰り込むのだ。従来も時に は試みられていたこの手法を徹底するとき、上記の不可解さ/不得要領さ自体が歌や歌群 の理解を側面から膨らませてくれる場合がある。しかもこれは、現存する物事を現存する ままに把握する道だから、うまく運べば膝を打つような明快さが手に入る。 奇妙な記載に出くわしたとき、読者はどう反応するだろうか。元の状態を穿鑿したがる のは一部の学者だけで、まずはその奇妙さ自体を見とがめるのがまともな反応だろう。読 者が注意深い人なら、見とがめた記載を前後の脈絡と照合して、なんらかの意味を引き出 そうとするかもしれない。私はすでに、巻四・五三〇の左注「右今案此歌擬古之作也但 以時當便賜斯歌歟」と巻六・九五四の左注「右作歌之年月不審也但以歌類便載此次」に ついて、行間を読み込むよう読者を誘導する仕掛けと見る案を提示した。この発表では、 巻三・三一五の題詞下注「未逕奏上歌」、巻三・四四〇の左注「右二首臨近向京之時作歌」、 および巻六・一〇三一の左注「右案此歌者不有此行之作乎所以然言勅大夫従河口行宮還 京勿令従駕焉何有詠思泥埼作歌哉」にも同じ見方が当てはまることを示したい違いない。




上代文学会-秋季大会


令和2(2020)年度 上代文学会秋季大会
上代文学会・和歌文学会 合同シンポジウムご案内
日  時 2020年11月14日(土)午後1時30分~4時45分
会  場 オンライン Zoom開催(今回の参加は会員に限ります)
詳細は秋季大会の案内状をご参照ください。
テ ー マ 万葉と平安和歌 ―推移をどう見るか―

 現在、上代和歌の研究と中古以降の和歌の研究は深く分断されている。こうした現状がよいと考えている和歌研究者は少ないであろう。しかし、それぞれの領域で膨大な研究が積み上げられているために、部外者には研究状況がつかめない上、そもそも情報が相互に流通しにくい構造になってしまっている。その「壁」をなくすることは不可能と思われるが、少なくとも壁をいくらか低くする努力は必要であろう。
 上代と中古以降とでは、同じ和歌というジャンルとしての連続性があるのはもちろんだが、一方で大きな差異があることも言うまでもない。何が連続し、何が変わっていくのか、お互いの領域に踏み込んで発言していかなくては見えてこないはずである。このシンポジウムでは、双方の研究者が時代を超えて問題提起を行うことで、「壁」の中にいるだけでは気づきにくいことを見いだしていくことを目標としたい。
パネリスト及び講演題目 『古今和歌六帖』が目指したもの―万葉歌を通して―
同志社大学教授 福 田 智 子
夢歌の展開―万葉から王朝和歌へ―
和歌山大学教授 菊 川 恵 三
命令表現の推移 ―万葉から古今へ―
お茶の水女子大学教授 浅 田   徹
「鹿鳴」詩と鹿鳴歌のはざま
立正大学名誉教授 近 藤 信 義
(司会 早稲田大学教授 高松 寿夫)
(司会  千葉大学教授 鈴木 宏子)
発表要旨

『古今和歌六帖』が目指したもの―万葉歌を通して―
福 田 智 子

 『古今和歌六帖』(以下『六帖』)は、十世紀後半の成立とされる、我が国初の類題和歌集である。約四五〇〇首の収載歌のうち、万葉歌が約四分の一を占める。『六帖』の成立時期は『万葉集』の古点時代と重なってくるが、『六帖』本文は、必ずしも『万葉集』の古写本本文と一致しないことが指摘されている。「作歌の手引書を意図したもの」(『新編国歌大観』解題)とされる『六帖』だが、万葉歌の表現にいったいなにが起こっているのか。
 十世紀後半には、『後撰和歌集』が成立し、また、私家集が多く生まれた。比較的長い詞書を有する和歌が多いことから「場の和歌」とも称される。その一方で、『六帖』は、基本的に詠歌状況を記さない。この観点から『六帖』を捉えると、「和歌の詠歌状況からの解放」という『六帖』の役割が見えてくる。
 それは自ずと和歌表現の自立を促すことになろう。詠歌状況が付随しなければ理解しにくい和歌は、表現類型に即して表現を変容させていく。自立した和歌表現は、新たな和歌を詠むときの素材や物語の引き歌としても、より使いやすいものになるだろう。就中、平安期における万葉歌享受は、読みの問題をもはらんでいる。それは万葉時代の訓の追求というよりもむしろ、平安期の風俗や美意識に合わせた解釈と捉え得る。
 十四世紀初頭頃になると、『夫木和歌抄』や『歌枕名寄』では、和歌は出典を伴って分類される。この姿勢はきわめて実証的で、後には江戸期の国学者たち、そして現代の私たち研究者にも、出典考証として引き継がれている。だが、『六帖』の本文については、出典の本文との不一致を「乱れ」として捉えるだけではなく、平安中期という時代性を念頭に置いて、類題和歌集としての『六帖』本文のあり方を捉えてみると、和歌表現の本質が見えてくるのではないか。その柔軟な表現の変容が次の時代の和歌表現を生み出しながら、「平安万葉」として時代をつないでいると位置づけたい。

夢歌の展開―万葉から王朝和歌へ―
菊 川 恵 三

 これまで「夢」をキーワードに、万葉の相聞歌がどのように展開してきたかを考えた。それを踏まえ、王朝和歌(三代集)とどのようにつながり、どのように違うのかを考えてみたい。
 一般に、万葉と古今の夢歌は、「夢の俗信」(相手が自分を思えば夢に現れる)を背景にした「夢に見えこそ」のような相手に訴える歌がなくなる一方で、夢にまで来てくれない嘆や夢路の具体性などに関心が移るとされる。確かに古今集を見ればそうなのだが、同時代の伊勢物語や、次の後撰集に目をやると、夢の出現と相手の思いをうたったものは少なくない。古今集を飛び越えてこれらがつながるのはなぜなのか、またそれらは万葉の夢歌と同じものなのだろうか。
 また、古今集を代表する小野小町の夢歌は、実は古今の夢歌の中では特殊で、用語や発想の点で万葉の夢歌に近いところがある。しかしそれは、後撰集・伊勢物語とは異なり、その根底は古今の歌人達につながることがわかる。いずれも、「夢」というほんの小さな窓からのぞいたものではあるが、和歌文学研究の一助になればと考える。

命令表現の推移 ―万葉から古今へ―
浅 田 徹

 上代和歌と中古和歌とのコミュニケーション機能の違いを考える時、上代では万葉集しか資料がなく、かつ万葉集では詠作の状況を示す題詞が付されている歌が少ないという障害がある。歌自体から、歌の機能の推移を抽出できないだろうか。
 歌の対他的機能を観察できる標識として、命令・禁止の表現を取り上げてみたい。誰かに対して命令したり、禁止したりするのは、歌が他者に対する働きかけの機能を持っていることを示す。実は、万葉集と古今集とを比較すると、命令表現が減少するという先行研究は僅かながら存在している。ただしその数値をどうやって得たのかが明確ではないこと、用例群の内部をさらに細かく分類する必要があると思われることから、改めて調査することにした。
 その際、近年作成・公開された新しいツールとして、国立国語研究所の「日本語歴史コーパス」を用いることにする。ここでは万葉集・古今集ともにすべて品詞分解され、大変有難いことに「活用形」での検索が可能である。これにより、用言の命令形だけをすべて抽出するという作業が、簡単に漏れなく行えるようになった。これに、禁止の「な~(そ)」、禁止の終助詞「な」、願望の終助詞「ね」を加えたものを基礎データとすることにした。
 このうち、人間に対する命令に限定してふるいを掛けると、万葉に対して古今では大きく減少する。直接的なメッセージとしての性質が弱化しているわけである。ほかの事項については現在検討中だが、できればこうした現象が、上代和歌と平安和歌との差異として知られている他の事柄(敬語の減少・朧化された二人称としての「人」の出現など)とどのように関係づけられるかについて考えてみたい。

「鹿鳴」詩と鹿鳴歌のはざま
近 藤 信 義

 「鹿鳴」詩は『詩経』小雅の詩、鹿鳴歌は大和の歌々。「鹿鳴」詩の中核的な思想は、「宴」が君臣相楽の理想的な世界を現出させていくところにあるのだが、日本での享受は多面・多様な文芸環境を開いていった。たとえば、『懐風藻』には渡来の賓客をもてなす宴席詩として「鹿鳴」詩の主題が継承されているが、ほぼ同時代の万葉集には、「鹿鳴」詩を分析的に享受している。たとえば「鹿鳴」詩においては「鹿鳴」は友(賓客)を呼びかける声として捉えられているのだが、万葉の鹿鳴歌は妻(番)を求めて鳴く声として歌われている。その享受の過程には万葉人の自然生態の観察眼があり、「鹿鳴」詩を和文的に翻訳を加えることによって、鹿との取り合わせ(秋萩・花妻・尾花)として捉え直されていった。いわば、鹿鳴歌は「鹿鳴」詩を構成する要素を分析し、モチーフ化して継承・展開していると受け取ることが出来る。
 鹿鳴歌にあって独特の位置にあるのは『日本後紀』に見られる桓武天皇歌(延暦十七年八月北野遊猟)である。これは一首の単独の記録だけではなく、狩猟の記事全体が、宴の主催者伊豫親王との交歓の叙述であり、それは「鹿鳴」詩を基層におきつつ、「鹿鳴」を宴席におけるもてなしのシンボルとして演出を試みているとみえる記事である。当該の桓武歌の意義は、君臣和楽の主題を演劇的に現出したことによって、これが帝王のエピソードとして語り継がれ、ついで古今和歌の鹿鳴歌(三一二・四三九)の根拠として位置付けられだろうと云うところにある。
 こうした事例を踏まえつつ、「推移」という課題を据えて考える機会としてみたい。



令和2(2020)年度上代文学会秋季大会 研究発表会ご案内
日  時 令和二年11月15日(日)午後一時~四時十五分
会  場 オンライン ZOOM開催(今回の参加は会員に限ります。)
詳細は秋季大会の案内状をご参照ください
研究発表 歴史の再編成―叙述から見る『藤氏家伝』の『書紀』改作の方法― 
早稲田大学大学院博士後期課程 楽 曲
(司会 日本工業大学教授 工藤 浩)
山上憶良「日本挽歌」長反歌の構成
東京大学大学院博士後期課程 大島 武宙
(司会 専修大学教授 大浦誠士)
アヂスキタカヒコネ考
福岡女学院大学名誉教授 吉田 修作
(司会 フェリス女学院大学教授 松田 浩)


発表要旨

歴史の再編成―叙述から見る『藤氏家伝』の『書紀』改作の方法―
楽 曲

『藤氏家伝』の藤原鎌足描写(以下「鎌足本伝」)に『日本書紀』の記載と類似する表現が多く見られることは、今日では既に衆知のことである。 かかる類似性をもとにし、先行研究は、両書の関係について様々な見解を呈した。そのうち、矢嶋泉氏はこれまでの先行研究に触れながら、両書の記述の異同を検討し、 こうした異同はすべて「鎌足本伝」が『書紀』を利用する際に、自らの立場に合わせて自由に解体・改変した結果であり、 「共通の原資料や独自資料の差に還元されるべきものではない」と指摘した。氏の結論は、誠に首肯される意見であるが、 しかし史実に沿うか否かはともかくとして、『書紀』に対する「鎌足本伝」のこうした解体・改変は一体どのようなレベルで行われたものだろうか。 この問題について先行研究は主にそれを後の『高橋氏文』・『古語拾遺』などと同類の『書紀』翻案として捉えてきたが、改めて「鎌足本伝」の『書紀』改作の方法を考察してみると、 簡単に類型化できない部分も見える。従って本発表は『書紀』の享受史という視点から、従来の研究でまだ充分に指摘されていない「鎌足本伝」の『書紀』改作の特徴を整理し、 同じく『書紀』の利用が確認できる、『藤氏家伝』の成立前後のほかの文献も参照しつつ、改めて『書紀』の享受史における『藤氏家伝』の位置を検討する。 さらに当時の時代環境において、献上されてから四十年以上を経た正史に対する『藤氏家伝』のこうした改作の意味をも明らかにしたいと思う。


「好去好来歌」再考
富原 カンナ

 遣唐大使丹比広成に送られた山上憶良の「好去好来歌」(万葉集巻五・八九四~六)は、巻十三の人麻呂歌集歌(三二五三~四)と語句の上での共通点が多く、憶良がこの作に倣って創作したことが示唆されている。とりわけ両者の関係から、人麻呂集歌も遣唐使を餞 する作と見て、ともに「言霊」が詠み込まれたことを「「唐国」に対する「日本国」という国家意識に立脚する言語主張」(伊藤博『万葉集の表現と方法上』)とする論考が、当該作の研究に大きな影響を与えている。
但しこの見解については、人麻呂集歌には作歌事情の記載はなく、遣唐使派遣の状況に決定されない点、また集中の他の遣使餞歌には、外国に対する国語の自意識は殆ど詠まれていないことが問題として挙げられる。「好去好来歌」の内容は、むしろ他の遣唐使歌と 同様「無事に行って帰ってきて欲しいと願い、住吉・大和の神に祈る」という常套的な詠みぶりに終始する。
すなわち伝承的儀礼歌に則った歌詠の中で、「言霊」が詠み込まれた創意が考察されるべきであろう。本発表では、先蹤とされる人麻呂集歌の歌意を明らかに し、「言霊」の意味を検証した上で、憶良がそれをいかに取り入れたかを考察する。 「言霊」の語は集中の三作に見え、憶良以外の歌は「相聞」に所収されている。人麻呂集歌は、前の歌群(三二五〇~二)と併せ、旅行く者を送る歌であり、相手の無事を祈願し「言挙げ」も敢えてする、と詠じる中で「言霊」が詠まれている。憶良は「言霊」を詠じた人麻呂集の恋歌に倣い、その形を基に遣唐使派遣に相応しい作と成したと推察される。
近時上野誠氏(「好去好来歌」における笑いの献上」『万葉文化論』)より、当該反歌二首を「待つ女」の歌と捉える論が呈示されたが、一篇を長反歌通じて恋歌仕立の餞歌と見ることで、その見解もより深く把握されるのではないか、と考える。さらに「好去好来」という俗語で題された事由も、親密な間柄の餞歌を示すものとして理解されよう。


山上憶良「日本挽歌」長反歌の構成
大島 武宙

 『万葉集』所収の山上憶良「日本挽歌」は、和歌の前に前置漢詩文を持ち、また一首の長歌に五首の反歌を付すという、 それまでにない構成を持つ。漢文、漢詩、長歌、反歌という異なる形式の表現がどのように関わりあっているかを考えることが、全体の解釈に必要となる。 特に、反歌五首という異例の規模は、後の憶良が集中において五首以上の反歌を試みていることからも、その端緒として重要な意味を持つ。 この五首についてはこれまで、前半三首と後半二首の間に視点や心情の変化があるとする構造の把握が多くなされてきたが、 前置漢詩文から反歌へいたる表現全体を視野におさめるとき、むしろ五首の内部の断層よりも、五首の持つ一貫性が注意されなくてはならないように思われる。 前置漢文の主題のひとつは、仏教的な表現を用いて語られる、月日の経過や状況の変化の迅速さに対する嘆きである。長歌はそれを継承しながら、 「家ならば かたちはあらむを」や「家離りいます」という表現によって、「妹」が奈良の「家」を離れて筑紫に向かったことが、 あたかもそのまま死に直結したかのようにうたっている。反歌はさらにそれを承けて「妹」を失った男の悲哀を述べていると考えられるが、 一首ずつ前後の歌との類似性をたどると、一首目と二首目、二首目と三首目、三首目と四首目、四首目と五首目には互いにそれぞれ異なる共通性が見出だされる。 五首はそのような連鎖的な構成を持ちながら、とまどいや後悔を経て、次第に「妹」の不在を受け入れようとする動きを見せている。 あらゆるものは失われ、また月日の経過は迅速である、という無常の道理は、前置漢文で「蓋し聞く」と示されるような伝聞情報としては、 納得はできないながらも把握されていた。そしてその無常が、妻の死として自分の身を襲ったときに生じてしまう、尽くしがたい嘆きを述べるために、 連鎖的に展開する反歌五首という規模が必要とされたと考える。


アヂスキタカヒコネ考
吉田 修作

 アヂスキタカヒコネは古事記、日本書紀、出雲国風土記などに記述された神で、 出雲のオホクニヌシ(オホナムチ)と胸形三女神の一柱タギリビメとの間の子とされている。 ここでまず出雲と胸形との関係が注意される。そして古事記で当該神は「今迦毛大御神」とあり、「大御神」という敬称で記されていることも注意される。 当該神が「大御神」と称されるにはそれなりの理由があるだろう。  話としては古事記では、アメワカヒコの喪を弔うために来た当該神が、アメワカヒコに容姿が似ているとのことで、 天から下ったアメワカヒコの父や妻にアメワカヒコと見間違えられ、怒ってアメワカヒコの喪屋を剣で切り伏せたのが美濃の喪山となった。 当該神が飛び去った時に、その同母妹でアメワカヒコの妻であったタカヒメ(亦の名はシタテルヒメ)が当該神の御名を顕そうとして歌を歌ったという。 日本書紀神代紀九段正文では、アメワカヒコの喪屋は天に作られ、当該神は葦原中国から天に昇って喪を弔うとする点で、アメワカヒコ、当該神ともに天と地を行き来している。  一方、出雲国風土記仁多郡には次のようにある。御祖命オホナムチは御子の当該神が髭が生えるまで泣き止まずことばが言えなかったので、 御子を船に乗せても効果がなかった。御祖命は御子がことばを言う夢を見、覚めて御子に尋ねると御子が「御津(あるいは御沢)」とことばを発した。 その場所を問うと御子は水の流れている所に到り、沐浴をした。それに従って、国造が朝廷に神賀詞を奏上するに際してはそこで禊をするという。 他方、出雲国造神賀詞には「(大なもちの命)の御子あぢすきたかひこねの命の御魂を、葛木の鴨の神なびに坐せ」とあり、 当該神が倭の葛木にあって「皇孫の近き守神」の一つであるという。 すると、当該神は倭と出雲、そしてさらには出雲と胸形、そして天と地を結ぶ重要な存在と位置付けられ、それらが古事記で「大御神」とされた理由ではないか。

上代文学会例会・秋季大会発表者募集
発表をご希望の方は、例会係(烏谷知子・野口恵子・三田誠司・山﨑健司・渡邉正人)までご連絡ください。
reikai@jodaibungakukai.org

天災・停電などの非常事態でオンライン実施に大きな影響が出た場合には、
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上代文学会-例会


上代文学会 7月例会御案内
日  時 令和元年七月十三日(土)午後二時~五時
会  場 日本大学文理学部 百周年記念館二階 国際会議場
研究発表 安康記の考察―大長谷王子即位前記試論― 人麻呂歌集の献歌―弓削皇子と舎人皇子―

発表要旨
安康記の考察
   ―大長谷王子即位前記試論―


 安康記には、在位中の天皇が弑されるという特異な内容が記されている。父の仇を討つため目弱王によって引き起こされたこの事件は、大長谷王子による敵討ちと諸皇子誅伐へと展開しており、皇子間の争いを数多く記す『古事記』下巻のなかでも際だって多くの皇子たちの衝突が記されている。このような安康記に対するこれまでの研究は、概ね二つの立場から為されてきたことが指摘できる。一つめは目弱王を主体に据えて仇討ちにまつわる文芸性を追求する立場であり、濱田清次氏や三浦佑之氏がこの観点から考察を加えている。もう一方は、安康記を大長谷王子の即位前記と捉え、大長谷王子を中心とした解釈を施す立場である。この立場には、安康天皇固有の物語がほとんどないことから安康記は「雄略即位前記」であると指摘した中西進氏の説をはじめとして、諸皇子の排除=即位の必然性の付与と捉える森昌文氏の説、皇統存続の危機を武勇によって救ったことが即位の必然性へつながったと指摘する阿部誠氏の説、また『古事記』の反乱物語は次期皇位継承者の即位の正当性を語ると捉える立場から、安康記は一貫して「武勇の賢弟・大長谷王子(雄略)の即位の必然」を語っていると論じる矢嶋泉氏の説などが挙げられる。発表者は後者の立場から安康記を理解するものであるが、従来の説では大長谷王子の武勇性のみが大きく取り沙汰され、個々の物語が担う役割が充分検討されてこなかったきらいがある。根臣による讒言であったとはいえ、「等しき族」であることを理由に破綻した若日下王との婚姻が、雄略記に至って再度語られるという展開に目を向けるなら、安康記は大長谷王子が諸皇子のなかで抜きんでた地位へと成長する過程として読み解けるはずである。本発表ではその具体的なさまを、⑴若日下王への求婚譚、⑵黒日子王・白日子王の殺害、⑶市辺之押歯王の難というひとつひとつの物語展開に即して指摘してみたい。


「人麻呂歌集の献歌
   ―弓削皇子と舎人皇子―



 巻九には、人麻呂歌集所出の弓削皇子、舎人皇子への献歌が繰り返し載せられている。これらの歌の意味するところを考察したい。
 雑歌部には舎人皇子に献る二首(一六八三、一六八四)があり、二首共に春の花を詠んでいる。また、弓削皇子に献る歌三首(一七〇一~一七〇三)があり、三首に「雁」の語が共通している。しかし、続く舎人皇子に献る二首(一七〇四、一七〇五)には、共通する主題が見いだしがたい。一七〇四では山霧・川波が詠まれ、一七〇五では結実を待つ歌となっている。この二首に寓意を認めるかについても説が分かれている。一七〇四については寓意を否定し実景と見る説が多く、一七〇五については寓意を認めることが多い。ただ、その寓意がいかなるものなのか、いまだ考察の余地が残されているように思われる。「二首」とまとめられていながら、一方が実景で一方が寓意であるというのは、不自然さが否めない。さらに、続く一七〇六には舎人皇子自身の霧の歌があり、当然一七〇四との関連が考えられる。一七〇四では霧が「茂」というほかにない表現がなされており、一七〇六の「夜霧」も実景として歌う例が萬葉集中にみあたらない。もちろん孤例となる独自の表現をした可能性も否定できないが、三首とも寓意があるゆえの特異な例なのではないか。
 また相聞部にも弓削皇子に献る一首(一七七三)と舎人皇子に献る二首(一七七四、一七七五)が人麻呂歌集所出の三首として並んで載せられている。この三首を同時のものとみる説もあり、弓削皇子・舎人皇子の関係性も考慮する必要があろう。
 人麻呂と天武の皇子との関係(阿蘇瑞枝氏)、人麻呂歌集と巻九の排列(渡瀬昌忠氏)についての詳論もあり、近年も検討がすすんでいるところではあるが、本発表では「献る歌」であることを重視し、歌の意図を見定めたい。




2020年度(令和2年度)上代文学会例会・秋季大会発表者募集
発表をご希望の方は、例会係(烏谷知子・野口恵子・三田誠司・山﨑健司・渡邉正人)までご連絡ください。
例会は七月・一月に開催予定、申込締切はそれぞれ四月十日・九月十日です。
秋季大会研究発表会は十一月に開催予定、申込締切は六月三十日です。
reikai@jodaibungakukai.orgからもお申し込みができます

【交通・アクセス】
◆京王相模原線をご利用の場合
「稲城駅」下車、改札を出て右手方向に進み、2番バス停より「駒沢学園行き」「新百合ヶ丘駅行き」「柿生駅北口行き」のいずれかに乗車約7分。「駒沢学園」下車。
★一つ前の「駒沢学園入り口」で降車されないようご注意ください。
★稲城駅から徒歩では30分近くかかります。バスのご利用をお勧めします。

◆小田急線をご利用の場合
「新百合ヶ丘駅」下車、改札を出て南口方面に進み、階段を降り1階バスターミナル5番乗場より、「駒沢学園行き」「稲城駅行き」「稲城市立病院行き」のいずれかに乗車約20分。「駒沢学園」下車。
★道路状況により時間がかかる場合があります。土曜日はバスの本数が少ないのでご注意ください。

バス時刻表は駒沢女子大学HPの「アクセス」をご参照ください。


二〇二二(令和四年)年度 上代文学会一月例会 ご案内
日  時 二〇二二年(令和四年)一月八日(土)午後二時~三時三〇分
研究発表 「令三軍神」考―『住吉大社神代記』における『日本書紀』利用の問題をめぐって―

発表要旨
「令三軍神」考―『住吉大社神代記』における『日本書紀』利用の問題をめぐって―


 住吉大社の古縁起にして神官津守氏の氏文でもある『住吉大社神代記』(以下『神代記』)については、主に成立年代・成立経緯の問題を中心として研究が進められてきたが、一方で、その内容についての検討は十分にはなされてこなかった。特に『神代記』のうち半分ほどを占める『日本書紀』利用箇所については、坂本太郎氏(「住吉大社神代記について」『国史学』八十九、一九七二年十二月)が下した「書紀の文の衒学的な無計画な転載」「およそまともに本を読んでいる限り書ける文ではない」などの評価に象徴されるように、見るべきものがない部分として軽視される傾向にあったと言える。  これに対して三浦佑之氏(「『住吉大社神代記』の成立と内容」『古代文学』二十一、一九八二年三月)や谷戸美穂子氏(「『住吉大社神代記』の神話世界―平安前期の神社と国家―」『古代文学』三十七、一九九八年三月)は、『日本書紀』からの抄出や改変の中に住吉大社側の積極的な意図を読み取るべきとして、坂本氏とは異なる視点を提示した。そのような三浦氏や谷戸氏の視点は、『神代記』を読む上で重要なものだろう。ただ、そうした観点からの『神代記』研究が、谷戸論以降も盛んに行われてきたとは言い難い。  しかし『神代記』の『日本書紀』利用箇所には、これまで見過ごされてきた重大な問題点がまだ残されている。本発表では、坂本氏が『日本書紀』の無計画な転載の代表例の一つとして断じた、神功皇后摂政前紀の「令三軍曰」を「令三軍神(ヽ)曰」と改変している箇所(二三五・二六九行目)について、「三軍神に令して曰はく」などと読み下して〈神功皇后が神に命令するという不自然な文〉と見なす従来の解釈の誤りを指摘し、当該箇所の改変が『神代記』における住吉大神の〈軍神〉としての位置付けと深く関わる意図的かつ重要な『日本書紀』の読み換えであったことを明らかにする。またそれを端緒として、『神代記』における神話の描き方、そして『日本書紀』利用という営みのあり方を改めて問い直すことを試みる。



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