秋季大会案内


秋季大会案内


平成29(2017)年度上代文学会秋季大会・シンポジウム ご案内
日  時 2017年11月11日(土)午後2時~5時30分
会  場 二松學舍大学 1号館 201教室
東京都千代田区三番町6-16
(地下鉄東西線、半蔵門線、都営新宿線「九段下駅」2番出口から徒歩8分)
テ ー マ 「大伴家持研究の最前線 ―巻二十を中心として―」

 大伴家持は、1970年代まで「創造において野心的な試みは、ほとんどない」(北山茂夫)、「彼の表現には模倣のあとが著しい」(尾崎暢殃)というように評価は低かった。80年代以降、ニュートラルに作品を分析する機運が高まり、多数の論文著書が出版され評価は大きく変わってきた。
 秋季大会シンポジウムでは、これまでの研究の累積を踏まえつつ、新進から重鎮といわれる四人の研究者の発表と会場を含めた討論によって、大伴家持研究の最前線を示していきたい。
 今回は、万葉集の最終巻にあたり、また家持最終歌も含む巻二十を中心に、その最前線を考える。巻二十は、家持歌以外の作歌・宴席歌・防人歌も含まれ、また「拙懐」「依興」「独」など家持研究のキーワードが含まれる巻である。更に大伴氏の存亡に関わる「橘奈良麻呂の変」時を含む巻でもある。様々な角度から最前線の大伴家持研究が語られるのではないかと考える。
 事前の打ち合わせでも、四氏の考えにはかなりの違いがみられた。当日のシンポジウムでは、会場からの意見も加わり、活発な議論が展開するのではないかと考えている。
パネリスト及び講演題目 巻二十と大伴家持
岡山大学准教授 松田 聡
大伴家持における聖武朝の回想と最終歌の成立―高円歌群の依興歌をめぐって―
國學院大學助教 鈴木 道代
家持「歌日誌」における天候 ―雪と雷―
東京大学教授 鉄野 昌弘
大伴家持の孤独 ―巻二十を中心に―
二松學舍大学特別招聘教授 多田 一臣
(司会 二松學舍大学教授 塩沢一平)
発表要旨

巻二十と大伴家持
松田 聡

 万葉集末四巻が家持歌を軸として概ね日付順に編まれているということは誰の目にも明らかであるが、これら四巻をひとしなみに「歌日記(誌)」と呼ぶことに対しては、なお異論もあるのではなかろうか。それは巻二十をどう捉えるかという問題と直結していると思われる。巻二十は、雑多な歌稿を単に日付順につないだだけの未整理な歌集なのか、それとも、何らかの基準によって編まれた「撰集」なのか、ということである。
 さしあたって表記の問題を措くとしても、巻二十は他の三巻(巻十七~十九)に比して家持以外の作者の歌を非常に多く含んでいるということが目を引く。相対的に家持歌の割合が僅少であることが巻二十の性格を見えにくくしていることは否めないだろう。家持が人づてに入手したと見られるこれらの作を、私は便宜的に「伝聞歌」と呼んできたが、「伝聞歌」と家持との関わりをどう見極めるかは巻二十の把握に深く関わっているのではなかろうか。「伝聞歌」の中には家持との関わりが題詞左注から確認できない作も少なからず見受けられるが、例えば、皇太子大炊王と藤原仲麻呂の肆宴歌(巻二十・四四八六~七)などは、その代表的なものであろう。家持論の視点から見たときに、史実との関係もあって、この歌群などは大いに問題となるものではあるまいか。
  無論、仮に巻二十に何らかの編纂基準があったとして、それを客観的に検証するのは容易なことではないが、巻十七~十九の三巻で繰り返し提示されてきた要素が、巻二十において再び繰り返されているということには注意したい。複数のテーマが繰り返し現れるということが、巻二十を含めて末四巻に「撰集」としてのゆるやかな枠組みを与えているのではないだろうか。「伝聞歌」と家持歌の双方が相まって作り出すその大きな枠組みを、他巻との関わりにおいて考えられないかというのが本発表の目指すところである。
  本発表では、万葉終焉歌(巻二十・四五一六)を視野に入れつつ、右に挙げた諸問題について考察してみたい。また、家持が巻二十に描き出そうとしたことと史実との間の「ずれ」をどう理解すべきかという問題にも言及したいと考えている。

大伴家持における聖武朝の回想と最終歌の成立―高円歌群の依興歌をめぐって―
鈴木 道代

 『万葉集』巻二十は、天平勝宝五(七五三)年より始まる。天平宝字三(七五九)年に『万葉集』が閉じられるまでの六年間の中で、家持は高円野の歌を三度詠んでいる。最初は、巻二十の前半、天平勝宝五年八月に、「二三の大夫等の、各壺酒を提げて高円の野に登り、聊かに所心を述べて作れる歌」を大伴池主、中臣清麿らと詠む。次は、天平勝宝六(七五四)歳七月に「独り秋の野を憶ひて、聊かに拙き懐を述べた歌」を詠むがこれも高円回想の歌である。最後は巻二十の終盤である天平宝字二(七五八)年に、「興に依りて各高円の離宮を思ひて作れる歌五首」を、大原今城、中臣清麿、甘南備伊香らと詠む。
これら高円歌群は、高円が聖武天皇の離宮があった地であることから、聖武天皇や聖武朝を回顧して歌われたことが従来指摘されている。
 天平勝宝元(七四九)年聖武天皇が譲位し、阿倍内親王が即位し孝謙天皇の時代が始まる。藤原仲麻呂が台頭してゆく中で、橘諸兄が薨じた天平勝宝九(七五七)歳に橘奈良麿事件が起こり、奈良麿や大伴古麻呂らが処刑され、大伴池主もこの事件に連座することになる。このような時代の政情の中で、高円歌群が詠まれるのである。特に天平宝字二年の高円歌群は「依興各思高圓離宮處作歌」と記されている。「依興」は家持独自の用語であり、辰巳正明氏が述べるように、中国詩学の六義で言うところの「興」を指し、「歌の言外に作者の何等かの余意が含まれている歌」(『万葉集と中国文学』笠間書院、一九八七年)であると考えられる。
 そこで今回は、高円歌群について、「興」という点から考察を加えた上で、そこに言外の思いを確認し、どのように家持は最終歌へ向かってゆくかについて考えたい。

家持「歌日誌」における天候 ―雪と雷― 
鉄野 昌弘

 奈良朝は、天人相関思想の受容が最も顕著な時代であったと言ってよい。善政の徴として瑞祥が報告され、改元とともに皇位継承の重要な節目となる一方、旱災に際しては、天皇によって自らの薄徳に因るという勅が出され、恩赦・賑給などが行われる。その時代に生きる家持を記録する「歌日誌」にも、当然そうした思想は投影しており、例えば越中時代に旱災を歌った「雲の歌」や、その後の「雨落るを賀する歌」には、東茂美氏らによって、天人相関思想と、それに基づく「喜雨」の詩賦の影響が指摘されている。
 巻二十では、「族を喩す歌」など天平勝宝八歳六月十五日の六首の直後に、十一月五日夜付で「小雷起こり鳴り、雪は庭に落り覆ふ。忽ちに感憐を懐き、聊かに作る短歌」(四四七一)が置かれている。この冬に鳴る雷は、『続日本紀』十二月朔日条にも記され、十月にも朔日条に日食、十六日条に「白気有りて日を貫く」と、明らかな異変が連続する。 五月二日の聖武太上天皇崩御より続く諒闇中、大伴古慈斐らの朝廷誹謗事件以外に目立った混乱はまだ見えないが、翌年三月の道祖王廃太子、六月の奈良麻呂の変に至る、様々な陰謀が進行していたと考えられる時期である。天候の異変は動乱を予告するのであろう。 雷の時は、天皇の侍衛が定められており(6・九四八~九)、古代日本では特に皇室の危機と解されたらしい。家持の題詞は曰くありげな書き方で、「感憐」には聖武崩御や不安定な皇位継承に対する感情が含まれていよう。にもかかわらず、歌は雷に言及せず、雪明かりに照らされる山橘の美しさを想い、土産に採って来たいと歌うのみである。それは先の六月十五日の「病に臥して無常を悲しび、道を修めむと欲ひて作る歌」の「山川のさやけき見つつ道を尋ねな」(四四六八)に通ずる逃避と韜晦である。それが巻二十の家持作歌を特徴づけるのであり、巻末の雪の歌にも、そうした韜晦が含まれていると考えられよう。

大伴家持の孤独 ―巻二十を中心に―
多田 一臣

 巻二十に収められた家持の作には、大きな限界があるように思う。家持の作は、越中時代を中に挟んで、越中以前、越中以後に分けて捉えることができるが、越中以後の家持の作は、巻十九巻末の「春愁三首」(巻十九・四二九〇~九二)を頂点として、あとはなだらかな下降線をたどっているように見える。西郷信綱氏の、よく知られた評言「彼の作品は瓦礫の山なのだが、右三首は一代の秀逸で、この三首をうるのに彼は瓦礫を積んできたともいえるほどである」(西郷信綱『万葉私記』)を肯うわけではないが、たしかにそう評されてもやむをえない面が、とりわけ巻二十の作にはあるように思われる(「春愁三首」以後の作になるが)。
 巻二十に収められた作は、私的な感懐を詠じた歌もあるが、その多くは宴席歌であり、表現史の上で新たな展開を感じさせるような歌はほとんど見られない。
 浮かび上がるのは、次第に逼塞を余儀なくされる時代状況の中、家持が歌の詠作を通じて、時勢に対する慨嘆を次第に顕著にしていることだろう。巻二十の家持の作は、表現論的な読みを貫きたい論者としては甚だ不本意ながら、その背景となる政治的な状況と結びあわせて読むことがどうしても求められるのである。
 以前、「うがらさとせる歌」(巻二十・四四六五~四四六七)を中心に、大伴氏の内部からも孤立した状況に置かれた家持の屈折した精神のありようを探ったことがあるが(多田「大伴家持の歌日誌」『万葉集を読む』〈古橋信孝編〉)、ここではそれをさらに深め、その前後の家持の軌跡を、その詠作を通じてたどることを試みたい。直接には、聖武天皇の離宮が置かれた「高円」という地のもつ意味を考察の出発点としながら、橘奈良麻呂の変前後の政治状況の中で、家持がどのような交友関係を結び、またいかなる歌を詠んでいたのかを見ていく。「高円」、あるいは「独り」「私」「拙懐」、さらには「八千種」などがここでの鍵言葉となろう。



平成29(2017)年度上代文学会秋季大会・研究発表会 ご案内
日  時 平成29年11月12日(日)午後1時~5時
会  場 専修大学 神田校舎7号館3階731教室
研究発表 『琴歌譜』十一月節「歌返」――「御井の上に植ゑつや」を中心に――
関西大学大学院博士後期課程 福原 佐知子
(司会 慶応義塾大学名誉教授 藤原茂樹)
仮想される言語空間――『古事記』における「言向(趣)」をめぐって――
日本大学文理学部 助手 鈴木 雅裕
(司会 聖学院大学教授 渡邉正人)
『古事記』天孫降臨神話の文脈――猿田毘古神を中心に――
國學院大學兼任講師 山﨑 かおり
(司会 日本工業大学教授 工藤 浩)
万葉集東歌の類歌をめぐって
群馬県立女子大学名誉教授 北川 和秀
(司会 早稲田大学教授 高松寿夫)

発表要旨

『琴歌譜』十一月節「歌返」――「御井の上に植ゑつや」を中心に――
福原 佐知子

 『琴歌譜』「歌返」は、『琴歌譜』のみに見られる歌謡である。また、「歌返」の縁記には、「仁徳天皇が八田皇女を恋しく思われて歌った」とあるが、これまで、縁記と「歌返」の歌謡がどのように関わっているのかを論じて解釈したものはない。
 本発表では、「歌返」とその第一縁記との関わりを論じ、恋歌としての解釈を試みる。譜歌詞では、「うゑつしの」が繰り返されており、歌詞においても「小竹」は重要な意味を持っていると考える。
   縁記によれば、「小竹」は八田皇女の比喩であり、その「小竹」を御井に植えることによって、依代として、その御井の聖水に奉仕させるという意味があるのだろう。「淡路の三原の小竹」が歌われているのは、本来は、八田皇女と異母姉妹にあたる淡路御原皇女の比喩であったとも考えられる。この淡路御原皇女も、反正天皇と同じ井の産湯を用いたという伝承が、淡路の史料『淡路常磐草』などに伝わっている。
 『古事記』によると、天皇が結婚する時には、女性に大御酒盞を持たせて献らせるという形式を取っている。応神記では、応神天皇が矢河枝比売に対して、また、応神天皇が皇太子の仁徳天皇に髪長比売を譲る時も、髪長比売に大御酒の柏の葉を持たせて献らせ、仁徳天皇と結婚させた。雄略記では、新嘗祭の時に三重の采女と春日の袁杼比売に大御酒を献らせている。
   同様に、『琴歌譜』「歌返」の場合も、御井に依代としての小竹を持ってきて植えたことは、つまり、その御井の聖水に奉仕させる女性を得たということになるのではないだろうか。しかも、御井の水は、大嘗祭で黒酒白酒を醸造するために重要である。
 『貞観儀式』と『延喜式』によれば、大嘗祭に先立ち、造酒童女が卜定され、造酒童女が神饌親供のための御稲や黒酒白酒に重要な役割を担うことがわかる。
   御井に小竹を植えるとは、井の依代として植えられたのである。それが小竹であるのは、小竹が女性に見立てられ、恋歌にも結びつきやすかったことが考えられる。また、井は、水汲みなどの役割から、女性に結びついて詠まれていることが多い。
 大嘗祭では、御井の聖水は神饌親供に使われ、井は天皇の御代を讃えるためにも詠まれている。その御井の依代となる女性を得た喜びが、『琴歌譜』十一月節の「歌返」に歌われていると考える。


仮想される言語空間――『古事記』における「言向(趣)」をめぐって――
鈴木 雅裕

 『古事記』が語る歴史の中で、「言向(趣)」の用例は計十一例を拾うことが出来るが、用例はテキスト全体にわたって散在しているわけではない。それは、上・中巻の限られた箇所にのみ現れるという、偏在した在り方を示す。それもあって、国内平定のキーワードとしての認識が共有されるのである。しかしながら、国家形成史上、重要な語とは認識されながら、その語に対する理解は定まっていないのも確かであろう。
 「言」の内実は、その一つとして挙げられる。たとえば、かつて本居宣長は「言」は「事」と同義であるとの理解を示した。しかし、用例の上でそれは認められず、現在は文字通り「言葉」と見るのが把握の基点となっている。以後の諸注釈は、多少の違いはあるものの、霊威ある言葉による平定とするのが主流であった。そうした通説化しつつあった理解に対し、神野志隆光は、「向」の検討から言葉を向けさせる意と解し、「言」を服属の言葉と捉えた。また、近年では、言語秩序のない世界に秩序をもたらすとの構造理解が、松田浩によって提示されている。
 以上の挙げてきた理解に対しては、いずれも問題点が指摘されている。「言向(趣)」を把握するためには、先行諸説が取り組んできた「言」の内実を考えてみなければならない。その際、視野に入れておきたいのが、語られる歴史との結びつきである。「言向(趣)」の用例は景行記より後に現れることはない。その点からして、「言向(趣)」の展開は倭建命によって果たされたと見てよい。そして、「言向(趣)」が中巻の綴じ目である応神記までを範囲としないことを踏まえれば、仲哀天皇から応神天皇の御代にかけて終焉の理由を見出す必要がある。
 そこで、仲哀記において始めて存在が明かされる百済・新羅との対外記事、応神記における『千字文』『論語』といった文字文化の渡来が重要な意味を持つと想定される。よって本発表では、そうした「言向(趣)」以後の歴史を視野に入れた上で、「言」の内実を考えてみることにしたい。


『古事記』天孫降臨神話の文脈――猿田毘古神を中心に――
山﨑 かおり

 『古事記』の天孫降臨神話は、皇祖神の地上支配や伊勢神宮創始を語る、非常に重要な意味を持つものであるにも拘わらず、文脈に不明瞭、不審な部分があることが注目される。例えば「此二柱神者、拝二祭佐久々斯侶伊須受能宮一」の「二柱神」がどの神を指すかが分かりづらく、従来説では、鏡と思金神、天照大御神と思金神、天孫と思金神などが挙げられている。「拝祭」とは祭られる神ではなく奉仕する者の行為であるから、鏡や天照大御神とするのは不自然であり、天孫は日向に降臨して伊勢の「伊須受能宮」に赴いた形跡が無いことからこれにも従いがたい。そこで注目したいのは、西郷信綱による、猿田毘古神と天宇受売命とする説である。猿田毘古神は、『古事記』では伊勢の阿邪訶で溺れており、神代紀第九段一書第一でも「伊勢之狭長田五十鈴川上」に到ったとされ、伊勢との繋がりがある。当該神話では、この猿田毘古神と天宇受売命が密接な関係を結ぶ。天宇受売命は猿田毘古神を「送奉」「仕奉」するよう命じられるが、「奉」とは下位者が上位者に奉仕することである。ここには、天つ神の天宇受売命が国つ神の猿田毘古神に奉仕するという不審な文脈がみえ、両者の関係性に検討を要することになろう。
 このように、文脈に不明瞭かつ不審な点を抱える当該神話は、編纂を念頭において考えるべきではないか。例えば、この神話と天の石屋の神話は登場神と神器が共通しているが、「其遠岐斯」という言葉から、元々両神話に直接的な繋がりがあり、それを切り離したことが想定できる。当該神話には、司令神の天照大御神と高木神、天孫の日子番能邇々芸命とその父の天忍穂耳命、先導神の猿田毘古神、随伴神の五伴緒と天忍日命・天津久米命、伊勢神宮祭祀と日向降臨という要素が入り組んでおり、これらを整理してその構造を考える必要がある。本発表では、様々な型の天孫降臨神話を掲載する『日本書紀』を参考にしつつ、特に猿田毘古神に注目しながら、『古事記』の天孫降臨神話の文脈について考察する。


万葉集東歌の類歌をめぐって
北川 和秀

  ①上毛野乎度の多杼里が川路にも子らは逢はなも一人のみして(三四〇五)
  ②上毛野小野の多杼里が安波治にも夫なは逢はなも見る人なしに(三四〇五 或本)
  両歌の前半は音がよく似ており、伝承の過程で生じた異伝であろう。しかし、後半は①は男の歌、②は女の歌であり、こちらは意図的に男女両方がうたえる歌として改作されたのであろう。
  ③上毛野可保夜が沼のいはゐ蔓引かばぬれつつ吾をな絶えそね(三四一六)
  ④入間路の大家が原のいはゐ蔓引かばぬるぬる吾にな絶えそね(三三七八)
 ③は上野国東歌、④は武蔵国東歌である。地名を異にするだけで、両歌は極めてよく似ている。上野・武蔵は隣国同士であり、一方から他方へと伝播したものであろう。両歌に「いはゐ蔓」がよまれているが、沼と原という相違があり、同じ植物かどうか疑わしい。伝播した先の国では、正体不明なまま改作した可能性がある。
  ⑤伊香保風吹く日吹かぬ日ありと言へど吾が恋のみし時なかりけり(三四二二)
  ⑥韓亭能許の浦波立たぬ日はあれども家に恋ひぬ日はなし(一五・三六七〇)
 これは類想歌というべきか。他巻の歌との間で類歌関係にある東歌には東国特有語が現れない傾向がある。畿内の歌の模倣であるが故に東国特有語が用いられないのか、畿内の人間の作なのか。
 東歌には、斯(し)西(せ)抱(ほ)という稀少字母を用いた歌群があり、原資料の表記を留めるものかとされる。
  ⑦吾が面の忘れむ時は国はふり嶺に立つ雲を見つつ偲はせ(三五一五)
  ⑧面形の忘れむ時は大野ろにたなびく雲を見つつ偲はむ(三五二〇)
 両歌はこの歌群に属し、男女の問答歌とみえる。巻十四の原資料にはこの歌は一対のものとして収められていたのではないか。
 こういった類歌や類歌に準ずる歌の分析を通して、東歌の成立について考察したい。

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   URL : http://jodaibungakukai.blog.fc2.com/
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