秋季大会案内


秋季大会案内


◎シンポジウム終了後、常任理事会(オンラインZoom)を開催します。


令和2(2020)年度 上代文学会秋季大会
上代文学会・和歌文学会 合同シンポジウムご案内
日  時 2020年11月14日(土)午後1時30分~4時45分
会  場 オンライン Zoom開催(今回の参加は会員に限ります)
詳細は秋季大会の案内状をご参照ください。
テ ー マ 万葉と平安和歌 ―推移をどう見るか―

 現在、上代和歌の研究と中古以降の和歌の研究は深く分断されている。こうした現状がよいと考えている和歌研究者は少ないであろう。しかし、それぞれの領域で膨大な研究が積み上げられているために、部外者には研究状況がつかめない上、そもそも情報が相互に流通しにくい構造になってしまっている。その「壁」をなくすることは不可能と思われるが、少なくとも壁をいくらか低くする努力は必要であろう。
 上代と中古以降とでは、同じ和歌というジャンルとしての連続性があるのはもちろんだが、一方で大きな差異があることも言うまでもない。何が連続し、何が変わっていくのか、お互いの領域に踏み込んで発言していかなくては見えてこないはずである。このシンポジウムでは、双方の研究者が時代を超えて問題提起を行うことで、「壁」の中にいるだけでは気づきにくいことを見いだしていくことを目標としたい。
パネリスト及び講演題目 『古今和歌六帖』が目指したもの―万葉歌を通して―
同志社大学教授 福 田 智 子
夢歌の展開―万葉から王朝和歌へ―
和歌山大学教授 菊 川 恵 三
命令表現の推移 ―万葉から古今へ―
お茶の水女子大学教授 浅 田   徹
「鹿鳴」詩と鹿鳴歌のはざま
立正大学名誉教授 近 藤 信 義
(司会 早稲田大学教授 高松 寿夫)
(司会  千葉大学教授 鈴木 宏子)
発表要旨

『古今和歌六帖』が目指したもの―万葉歌を通して―
福 田 智 子

 『古今和歌六帖』(以下『六帖』)は、十世紀後半の成立とされる、我が国初の類題和歌集である。約四五〇〇首の収載歌のうち、万葉歌が約四分の一を占める。『六帖』の成立時期は『万葉集』の古点時代と重なってくるが、『六帖』本文は、必ずしも『万葉集』の古写本本文と一致しないことが指摘されている。「作歌の手引書を意図したもの」(『新編国歌大観』解題)とされる『六帖』だが、万葉歌の表現にいったいなにが起こっているのか。
 十世紀後半には、『後撰和歌集』が成立し、また、私家集が多く生まれた。比較的長い詞書を有する和歌が多いことから「場の和歌」とも称される。その一方で、『六帖』は、基本的に詠歌状況を記さない。この観点から『六帖』を捉えると、「和歌の詠歌状況からの解放」という『六帖』の役割が見えてくる。
 それは自ずと和歌表現の自立を促すことになろう。詠歌状況が付随しなければ理解しにくい和歌は、表現類型に即して表現を変容させていく。自立した和歌表現は、新たな和歌を詠むときの素材や物語の引き歌としても、より使いやすいものになるだろう。就中、平安期における万葉歌享受は、読みの問題をもはらんでいる。それは万葉時代の訓の追求というよりもむしろ、平安期の風俗や美意識に合わせた解釈と捉え得る。
 十四世紀初頭頃になると、『夫木和歌抄』や『歌枕名寄』では、和歌は出典を伴って分類される。この姿勢はきわめて実証的で、後には江戸期の国学者たち、そして現代の私たち研究者にも、出典考証として引き継がれている。だが、『六帖』の本文については、出典の本文との不一致を「乱れ」として捉えるだけではなく、平安中期という時代性を念頭に置いて、類題和歌集としての『六帖』本文のあり方を捉えてみると、和歌表現の本質が見えてくるのではないか。その柔軟な表現の変容が次の時代の和歌表現を生み出しながら、「平安万葉」として時代をつないでいると位置づけたい。

夢歌の展開―万葉から王朝和歌へ―
菊 川 恵 三

 これまで「夢」をキーワードに、万葉の相聞歌がどのように展開してきたかを考えた。それを踏まえ、王朝和歌(三代集)とどのようにつながり、どのように違うのかを考えてみたい。
 一般に、万葉と古今の夢歌は、「夢の俗信」(相手が自分を思えば夢に現れる)を背景にした「夢に見えこそ」のような相手に訴える歌がなくなる一方で、夢にまで来てくれない嘆や夢路の具体性などに関心が移るとされる。確かに古今集を見ればそうなのだが、同時代の伊勢物語や、次の後撰集に目をやると、夢の出現と相手の思いをうたったものは少なくない。古今集を飛び越えてこれらがつながるのはなぜなのか、またそれらは万葉の夢歌と同じものなのだろうか。
 また、古今集を代表する小野小町の夢歌は、実は古今の夢歌の中では特殊で、用語や発想の点で万葉の夢歌に近いところがある。しかしそれは、後撰集・伊勢物語とは異なり、その根底は古今の歌人達につながることがわかる。いずれも、「夢」というほんの小さな窓からのぞいたものではあるが、和歌文学研究の一助になればと考える。

命令表現の推移 ―万葉から古今へ―
浅 田 徹

 上代和歌と中古和歌とのコミュニケーション機能の違いを考える時、上代では万葉集しか資料がなく、かつ万葉集では詠作の状況を示す題詞が付されている歌が少ないという障害がある。歌自体から、歌の機能の推移を抽出できないだろうか。
 歌の対他的機能を観察できる標識として、命令・禁止の表現を取り上げてみたい。誰かに対して命令したり、禁止したりするのは、歌が他者に対する働きかけの機能を持っていることを示す。実は、万葉集と古今集とを比較すると、命令表現が減少するという先行研究は僅かながら存在している。ただしその数値をどうやって得たのかが明確ではないこと、用例群の内部をさらに細かく分類する必要があると思われることから、改めて調査することにした。
 その際、近年作成・公開された新しいツールとして、国立国語研究所の「日本語歴史コーパス」を用いることにする。ここでは万葉集・古今集ともにすべて品詞分解され、大変有難いことに「活用形」での検索が可能である。これにより、用言の命令形だけをすべて抽出するという作業が、簡単に漏れなく行えるようになった。これに、禁止の「な~(そ)」、禁止の終助詞「な」、願望の終助詞「ね」を加えたものを基礎データとすることにした。
 このうち、人間に対する命令に限定してふるいを掛けると、万葉に対して古今では大きく減少する。直接的なメッセージとしての性質が弱化しているわけである。ほかの事項については現在検討中だが、できればこうした現象が、上代和歌と平安和歌との差異として知られている他の事柄(敬語の減少・朧化された二人称としての「人」の出現など)とどのように関係づけられるかについて考えてみたい。

「鹿鳴」詩と鹿鳴歌のはざま
近 藤 信 義

 「鹿鳴」詩は『詩経』小雅の詩、鹿鳴歌は大和の歌々。「鹿鳴」詩の中核的な思想は、「宴」が君臣相楽の理想的な世界を現出させていくところにあるのだが、日本での享受は多面・多様な文芸環境を開いていった。たとえば、『懐風藻』には渡来の賓客をもてなす宴席詩として「鹿鳴」詩の主題が継承されているが、ほぼ同時代の万葉集には、「鹿鳴」詩を分析的に享受している。たとえば「鹿鳴」詩においては「鹿鳴」は友(賓客)を呼びかける声として捉えられているのだが、万葉の鹿鳴歌は妻(番)を求めて鳴く声として歌われている。その享受の過程には万葉人の自然生態の観察眼があり、「鹿鳴」詩を和文的に翻訳を加えることによって、鹿との取り合わせ(秋萩・花妻・尾花)として捉え直されていった。いわば、鹿鳴歌は「鹿鳴」詩を構成する要素を分析し、モチーフ化して継承・展開していると受け取ることが出来る。
 鹿鳴歌にあって独特の位置にあるのは『日本後紀』に見られる桓武天皇歌(延暦十七年八月北野遊猟)である。これは一首の単独の記録だけではなく、狩猟の記事全体が、宴の主催者伊豫親王との交歓の叙述であり、それは「鹿鳴」詩を基層におきつつ、「鹿鳴」を宴席におけるもてなしのシンボルとして演出を試みているとみえる記事である。当該の桓武歌の意義は、君臣和楽の主題を演劇的に現出したことによって、これが帝王のエピソードとして語り継がれ、ついで古今和歌の鹿鳴歌(三一二・四三九)の根拠として位置付けられだろうと云うところにある。
 こうした事例を踏まえつつ、「推移」という課題を据えて考える機会としてみたい。



令和2(2020)年度上代文学会秋季大会 研究発表会ご案内
日  時 令和二年11月15日(日)午後一時~四時十五分
会  場 オンライン ZOOM開催(今回の参加は会員に限ります。)
詳細は秋季大会の案内状をご参照ください
研究発表 歴史の再編成―叙述から見る『藤氏家伝』の『書紀』改作の方法― 
早稲田大学大学院博士後期課程 楽 曲
(司会 日本工業大学教授 工藤 浩)
山上憶良「日本挽歌」長反歌の構成
東京大学大学院博士後期課程 大島 武宙
(司会 専修大学教授 大浦誠士)
アヂスキタカヒコネ考
福岡女学院大学名誉教授 吉田 修作
(司会 フェリス女学院大学教授 松田 浩)

上代文学会事務局
〒113―0033 東京都文京区本郷七―三―一
東京大学文学部 鉄野昌弘研究室内
上 代 文 学 会
http://jodaibungakukai.org/
※2019・2020年度(2020年3月31日迄)



発表要旨

歴史の再編成―叙述から見る『藤氏家伝』の『書紀』改作の方法―
楽 曲

『藤氏家伝』の藤原鎌足描写(以下「鎌足本伝」)に『日本書紀』の記載と類似する表現が多く見られることは、今日では既に衆知のことである。 かかる類似性をもとにし、先行研究は、両書の関係について様々な見解を呈した。そのうち、矢嶋泉氏はこれまでの先行研究に触れながら、両書の記述の異同を検討し、 こうした異同はすべて「鎌足本伝」が『書紀』を利用する際に、自らの立場に合わせて自由に解体・改変した結果であり、 「共通の原資料や独自資料の差に還元されるべきものではない」と指摘した。氏の結論は、誠に首肯される意見であるが、 しかし史実に沿うか否かはともかくとして、『書紀』に対する「鎌足本伝」のこうした解体・改変は一体どのようなレベルで行われたものだろうか。 この問題について先行研究は主にそれを後の『高橋氏文』・『古語拾遺』などと同類の『書紀』翻案として捉えてきたが、改めて「鎌足本伝」の『書紀』改作の方法を考察してみると、 簡単に類型化できない部分も見える。従って本発表は『書紀』の享受史という視点から、従来の研究でまだ充分に指摘されていない「鎌足本伝」の『書紀』改作の特徴を整理し、 同じく『書紀』の利用が確認できる、『藤氏家伝』の成立前後のほかの文献も参照しつつ、改めて『書紀』の享受史における『藤氏家伝』の位置を検討する。 さらに当時の時代環境において、献上されてから四十年以上を経た正史に対する『藤氏家伝』のこうした改作の意味をも明らかにしたいと思う。


「好去好来歌」再考
富原 カンナ

 遣唐大使丹比広成に送られた山上憶良の「好去好来歌」(万葉集巻五・八九四~六)は、巻十三の人麻呂歌集歌(三二五三~四)と語句の上での共通点が多く、憶良がこの作に倣って創作したことが示唆されている。とりわけ両者の関係から、人麻呂集歌も遣唐使を餞 する作と見て、ともに「言霊」が詠み込まれたことを「「唐国」に対する「日本国」という国家意識に立脚する言語主張」(伊藤博『万葉集の表現と方法上』)とする論考が、当該作の研究に大きな影響を与えている。
但しこの見解については、人麻呂集歌には作歌事情の記載はなく、遣唐使派遣の状況に決定されない点、また集中の他の遣使餞歌には、外国に対する国語の自意識は殆ど詠まれていないことが問題として挙げられる。「好去好来歌」の内容は、むしろ他の遣唐使歌と 同様「無事に行って帰ってきて欲しいと願い、住吉・大和の神に祈る」という常套的な詠みぶりに終始する。
すなわち伝承的儀礼歌に則った歌詠の中で、「言霊」が詠み込まれた創意が考察されるべきであろう。本発表では、先蹤とされる人麻呂集歌の歌意を明らかに し、「言霊」の意味を検証した上で、憶良がそれをいかに取り入れたかを考察する。 「言霊」の語は集中の三作に見え、憶良以外の歌は「相聞」に所収されている。人麻呂集歌は、前の歌群(三二五〇~二)と併せ、旅行く者を送る歌であり、相手の無事を祈願し「言挙げ」も敢えてする、と詠じる中で「言霊」が詠まれている。憶良は「言霊」を詠じた人麻呂集の恋歌に倣い、その形を基に遣唐使派遣に相応しい作と成したと推察される。
近時上野誠氏(「好去好来歌」における笑いの献上」『万葉文化論』)より、当該反歌二首を「待つ女」の歌と捉える論が呈示されたが、一篇を長反歌通じて恋歌仕立の餞歌と見ることで、その見解もより深く把握されるのではないか、と考える。さらに「好去好来」という俗語で題された事由も、親密な間柄の餞歌を示すものとして理解されよう。


山上憶良「日本挽歌」長反歌の構成
大島 武宙

 『万葉集』所収の山上憶良「日本挽歌」は、和歌の前に前置漢詩文を持ち、また一首の長歌に五首の反歌を付すという、 それまでにない構成を持つ。漢文、漢詩、長歌、反歌という異なる形式の表現がどのように関わりあっているかを考えることが、全体の解釈に必要となる。 特に、反歌五首という異例の規模は、後の憶良が集中において五首以上の反歌を試みていることからも、その端緒として重要な意味を持つ。 この五首についてはこれまで、前半三首と後半二首の間に視点や心情の変化があるとする構造の把握が多くなされてきたが、 前置漢詩文から反歌へいたる表現全体を視野におさめるとき、むしろ五首の内部の断層よりも、五首の持つ一貫性が注意されなくてはならないように思われる。 前置漢文の主題のひとつは、仏教的な表現を用いて語られる、月日の経過や状況の変化の迅速さに対する嘆きである。長歌はそれを継承しながら、 「家ならば かたちはあらむを」や「家離りいます」という表現によって、「妹」が奈良の「家」を離れて筑紫に向かったことが、 あたかもそのまま死に直結したかのようにうたっている。反歌はさらにそれを承けて「妹」を失った男の悲哀を述べていると考えられるが、 一首ずつ前後の歌との類似性をたどると、一首目と二首目、二首目と三首目、三首目と四首目、四首目と五首目には互いにそれぞれ異なる共通性が見出だされる。 五首はそのような連鎖的な構成を持ちながら、とまどいや後悔を経て、次第に「妹」の不在を受け入れようとする動きを見せている。 あらゆるものは失われ、また月日の経過は迅速である、という無常の道理は、前置漢文で「蓋し聞く」と示されるような伝聞情報としては、 納得はできないながらも把握されていた。そしてその無常が、妻の死として自分の身を襲ったときに生じてしまう、尽くしがたい嘆きを述べるために、 連鎖的に展開する反歌五首という規模が必要とされたと考える。


アヂスキタカヒコネ考
吉田 修作

 アヂスキタカヒコネは古事記、日本書紀、出雲国風土記などに記述された神で、 出雲のオホクニヌシ(オホナムチ)と胸形三女神の一柱タギリビメとの間の子とされている。 ここでまず出雲と胸形との関係が注意される。そして古事記で当該神は「今迦毛大御神」とあり、「大御神」という敬称で記されていることも注意される。 当該神が「大御神」と称されるにはそれなりの理由があるだろう。  話としては古事記では、アメワカヒコの喪を弔うために来た当該神が、アメワカヒコに容姿が似ているとのことで、 天から下ったアメワカヒコの父や妻にアメワカヒコと見間違えられ、怒ってアメワカヒコの喪屋を剣で切り伏せたのが美濃の喪山となった。 当該神が飛び去った時に、その同母妹でアメワカヒコの妻であったタカヒメ(亦の名はシタテルヒメ)が当該神の御名を顕そうとして歌を歌ったという。 日本書紀神代紀九段正文では、アメワカヒコの喪屋は天に作られ、当該神は葦原中国から天に昇って喪を弔うとする点で、アメワカヒコ、当該神ともに天と地を行き来している。  一方、出雲国風土記仁多郡には次のようにある。御祖命オホナムチは御子の当該神が髭が生えるまで泣き止まずことばが言えなかったので、 御子を船に乗せても効果がなかった。御祖命は御子がことばを言う夢を見、覚めて御子に尋ねると御子が「御津(あるいは御沢)」とことばを発した。 その場所を問うと御子は水の流れている所に到り、沐浴をした。それに従って、国造が朝廷に神賀詞を奏上するに際してはそこで禊をするという。 他方、出雲国造神賀詞には「(大なもちの命)の御子あぢすきたかひこねの命の御魂を、葛木の鴨の神なびに坐せ」とあり、 当該神が倭の葛木にあって「皇孫の近き守神」の一つであるという。 すると、当該神は倭と出雲、そしてさらには出雲と胸形、そして天と地を結ぶ重要な存在と位置付けられ、それらが古事記で「大御神」とされた理由ではないか。

上代文学会例会・秋季大会発表者募集
発表をご希望の方は、例会係(烏谷知子・野口恵子・三田誠司・山﨑健司・渡邉正人)までご連絡ください。
reikai@jodaibungakukai.org

天災・停電などの非常事態でオンライン実施に大きな影響が出た場合には、
やむをえず秋季大会研究発表開催を中止する場合がありますが、
中止の周知は、多くの場合困難ですので、ご了承ください。
携帯電話からもアクセス可能な、上代文学会非常用連絡サイトを開設しております。
URL  http://jodaibungakukai.blog.fc2.com/
このサイトに、非常時にあたっての秋季大会研究発表中止等の情報が載ることもありますので、
非常時に際してはご確認ください(状況によっては、情報の掲示が困難になる場合もあります)。
このサイトは、あくまで非常時の緊急情報連絡用ですので、書き込みはできません。