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新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、今年度大会は、オンライン開催とすることといたします。


2021年度 上代文学会 大会案内
期  日 2021年 5月22日(土)、23日(日)
会  場 オンライン開催(ZOOMを使用)
日  程 ※当日の進行により、時間が前後する場合があります。
― 22日(土) ―
理事会 午後0時30分~1時30分
講演会 午後2時~4時30分

学会挨拶 挨  拶 防人の妻の歌は誰がどこで作ったか 欽明紀を試掘する
上代文学会賞贈呈式 午後4時30分~4時40分
総会 午後4時40分~5時30分
―23日(日)―
研究発表会 午前10時~午後4時30分
《午前の部》(午前10時~)
『万葉類葉抄』における仙覚『万葉集註釈』の受容
応神記ヒボコ系譜をめぐって
―昼食―

《午後の部》(午後1時~)
大伴家持と暦・二十四節気―立春の歌を中心に―
天平勝宝六年の高円独詠歌群―家持における「らむ」の表現をめぐって―

―休 憩―(午後2時40分~2時50分)

国司の詠作―熊凝哀悼挽歌―
新出 静嘉堂文庫所蔵 中山信名自筆「常陸国風土記」写本の基礎的考察
―群書類従本底本の出現―

◇申し込み
・会員の参加は無料です。郵送の大会案内に従ってお申込み下さい
(下記の一般向けURLから申込むことも可能です)。お振込みの必要はありません。

・一般(会員外)の方は初日の公開講演会(と続く上代文学会賞贈呈式)にのみ参加できます。
ご参加をご希望される一般(会員外)の方は、下記の郵便振替口座に1,000円をお振込みになった後に、
https://forms.gle/eGn7PHSewBtP4pxm9からお申込みフォームにアクセスしてお申込みください。

【以下は一般(会員外)の方向けの案内です】
〈お振込み先〉
「上代文学会大会運営委員会」口座番号(ゆうちょ銀行) 01310 - 6 – 111307

〈申し込みに関するお願い〉
郵便局備え付けの郵便振替用紙に、口座番号「01310 - 6 - 111307」・加入者名「上代文学会大会運営委員会」を
記入し、通信欄に「大会参加希望」と記した上で、①住所 ②氏名 ③電話番号 ④メールアドレス ⑤勤務先名および職名 (学生は所属大学または大学院名、および学年)を記入し、大会参加費1,000円をお振り込みください。
お振込みだけでは申込みは完了しません。
入金後、必ず上記URLのお申込みフォームからお申込み手続きをお願いいたします。

大会研究発表要旨
『万葉類葉抄』における仙覚『万葉集註釈』の受容

 『万葉類葉抄』(以下、『類葉抄』)は、『万葉集』の大規模な部類辞書で、延徳三(一四九二)年、後土御門天皇の勅命の下、当時権大納言であった中御門宣胤により編まれた。本抄は全十八巻で、西本願寺本『万葉集』を使用しつつ、長歌を含む『万葉集』の歌を網羅的に採録しており、その歌々には多数の注が書き込まれている点が注目される。この注記全体の五割超を占めるのが仙覚の『万葉集註釈』であり、さらに『万葉集目安』や『詞林采葉抄』なども引用される。仙覚の校訂本を使用し、さらにそこに『万葉集註釈』等の注釈が多く引かれることから、『類葉抄』は室町期の京の『万葉集』研究が、仙覚を中心とする関東の『万葉集』研究の成果を受容したものと位置づけ得るだろう。本発表では、その享受の具体的な様相について、いくつかの視点から考察を行う。
『万葉集註釈』には今日複数の伝本が残されており、その系統や関係性、享受の問題に関し、小松靖彦氏による重要な指摘がなされている。これら先行研究を踏まえ、内容や表記の上から注記の調査を行ったところ、『類葉抄』が参照した『万葉集註釈』は玄覚らの書入れを持つ系統であった可能性が高く、また現存伝本では仁和寺本や国文学研究資料館本などと一致する例が確認できた。また、『類葉抄』における注記は、注釈の部分的な引用を主とし、時に注釈の文言は短く言い換えられ、宣胤の私見も含まれることから、従来の『万葉集註釈』研究においてさほど重要視されずに今日に至るといえる。しかし、換言すればそれらは取捨選択を経た形でもあり、編者宣胤の仙覚説に対する認識を内包するものであろう。仙覚をはじめとする複数の先行注に対し、宣胤がいかなる判断を行っているか、注記の内容を中心に検討を試みる。


応神記ヒボコ系譜をめぐって

 『古事記』におけるオキナガタラシヒメは、開化天皇段の系譜においてその父系の出自を、応神天皇段のアメノヒボコ系譜においてその母系の出自をたどることができる。一方『日本書紀』(神功皇后摂政前紀)ではオキナガタラシヒメの父系の血筋が開化天皇由来のもので、母親の名がカヅラキノタカヌカヒメであることが記されるのみとなっており、ヒボコとの系譜上のつながりには言及されない。さらに『日本書紀』でヒボコ関連記事は垂仁紀に一括して載録されているのに対し、『古事記』が垂仁天皇段にタヂマモリの記事を置きながら、その祖先にあたるヒボコの渡来記事と系譜とを応神天皇段中に載せていることは注目される。
ヒボコの渡来からイヅシヲトメをめぐる兄弟争いまでの記事内容が本来的に応神天皇の事績とほぼ無関係であり、「昔」で記事が開始されること、上巻神話を想起させるような説話的要素を含むことなどから、応神天皇代の出来事として語られたものでないことは従来指摘されている。また、ヒボコの系譜は初代のみ「…娶…生子…」という『古事記』の一般的な系譜叙述形式を採り、以後三代にわたって「此之子…此之子…」と片親(父親)の名のみを表示し、オキナガタラシヒメの曽祖父・祖父・タヂマモリが兄弟として枝分かれする世代と接続している。この叙述形式は、崇神天皇段においてオホタタネコが自身とオホモノヌシとの血縁関係を天皇に奏上する際の発話文中にも確認され、いずれの場合も、「…之子」という形式で父親の名のみをつなぐ三代の系譜が、神話的な出来事を背景に持つ存在と中巻の特定の天皇段に生きる人物とを直線的に接続している。
ヒボコ渡来からイヅシヲトメまでの記事は中巻の時系列から遊離しているようにみえるが、説話記事の中に挟まれたヒボコの系譜においてそれらはタヂマモリやオキナガタラシヒメと接続され、皇統ひいては『古事記』中巻の構想と有機的に関わりを持つこととなる。


大伴家持と暦・二十四節気―立春の歌を中心に―

 大伴家持とその周辺の歌人にみられる、暦や二十四節気に着目した詠歌は、『万葉集』のなかでも特異なものである。立夏と暦月のずれを詠んだ久米広縄公館での宴歌(18四〇六六~九)は平安朝にも類例のない前衛的な歌と評されてきたし、20四四九二の家持歌は年内立春詠の嚆矢であるとされる。このような歌が次々と生み出された背景に、当時における暦の流布があったのはいうまでもないが、そればかりではなく、家持が越中守として当地に赴任し、そこで都とは異なる越中の風土に触れた経験が大きく影響したとの指摘もある。首肯すべき見方であろう。ただし、これらの個々の歌の表現とその解釈については再考の余地があると思われる。本発表では特に、立春をめぐる詠歌に検討を加えたい。
天平宝字元年(七五七)の「十二月十八日於大監物三形王之宅宴歌三首」(20四四八八~九〇)には、三形王・大原今城・大伴家持の歌がみえる。宴の翌日の十九日は立春にあたるとされ、三者の歌は、立春前日に春の到来を待望して詠まれたものとされてきた。しかし家持の歌「あらたまの年行き返り春立たばまづ我が宿に鶯は鳴け」の初二句「あらたまの年行き返り」が、暦年が改まり新年を迎える意の歌句であることを考慮すると、家持の詠歌には、節気における立春を単純に言祝いだもの以上の意図がありはしないだろうか。一方で、宴の四日後に家持が詠んだ歌「月数めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか」(四四九二)は、暦月と立春のずれに着目した一首である。末句の「春立ちぬとか」は、暦の上ではまだ旧年であり冬のはずなのにもう春が立ったというのか、と春の訪れを訝しむ口吻であり、これも年内立春を単に喜んだ歌とはいいがたい。暦年が改まって新年になることを切望する家持歌の表現の背後には、あるいは、この年のはじめの橘諸兄の薨去と、六月に起きた橘奈良麻呂の乱の悲劇の影があるのではないか。当時の政治的状況をもふまえて、これらの立春詠の表現に再検討を加え、当該歌の巻二十における位置づけを考えたい。

天平勝宝六年の高円独詠歌群―家持における「らむ」の表現をめぐって―

 本発表は、天平勝宝六年に「独り秋の野を憶ひ、聊かに拙懐を述べて」作った(左注)という家持の独詠歌群(20・四三一五~四三二〇、以下「当該歌群」)について、「らむ」をめぐる表現史の視点から、これを万葉集の中に位置づけようとするものである。
 当該歌群は、高円の野における大宮人の野遊を主題とするものであるが、「らむ」という語が使用されていることからすれば、詠み手は高円とは離れた場所にいて、「今現在」の野遊の様を想像して詠んでいると理解すべきであろう。しかるに、この時、宮中は諒闇中であり、大宮人の遊覧・遊猟などあるはずもないのである(木下正俊『全注』)。このことは当該歌群の左注に「拙懐」とあることと相まって重要な問題を孕むものであるが、本発表としては、当該歌群が、ありもしない「今現在」の「宮廷行事」を想像して詠むという、かなり特殊な歌群であるということに注目したい。詠法という点から見て、そこには、「留京三首」(1・四〇~二)や、松浦河逍遥歌群における「後人追和之詩」(5・八六一~三)など、複数の源流を認めうるのではないか。
 なお、家持の場合、天平十九年春の病臥の体験が「らむ」をめぐる表現に目を開かせる端緒となったかに見受けられる。この時の家持は、深刻な病臥の体験から「らむ」を用いて都の家族を思う歌を詠んでいるが、それは離れた場所における「今現在」を空想するという営為にほかならないだろう。その直後に、池主との贈答において「らむ」を用い、交友の様を空想しているというのは偶然ではあるまい。病臥という閉塞状況が、家持に様々な光景を「想像」させているという次第なのである。
 当該歌群が、自ら参加し得ない大宮人の野遊の様を想像し、羨望の念を底流させているのは、こうした「らむ」をめぐる表現史を背景にしているのではないだろうか。

国司の詠作―熊凝哀悼挽歌―

 万葉集巻五に所収された山上憶良の「敬下和為二熊凝一述二其志一歌上六首幷序」は、十八歳の青年大伴熊凝の死を悼んだ作で、それに先立って置かれた、大典麻田陽春の「大伴君熊凝歌二首」に「敬和」したもの、とされる。集中に他例のない死の際の青年が親を思うという主題、臨死者の代作という手法について、自身の体験に基づく親子の情への関心、漢籍の代作詩の影響、民衆の死への哀悼が、創作の源泉として指摘されてきた。ただ、漢文序前半部の公文書的な記述は、憶良個人の文学的関心・民衆への共感だけではない契機が考えられよう。
 当該序文と令の記載との類似は既に指摘されているが、なお熊凝の出自、死没地が国・郡名で明記されている点に留意される。大宝令後に制定された国・郡を、題詞・左注で記載することは、集中では、官人の地方赴任地での作、特に憶良を中心とする大宰府圏の作品に偏って見え、中央を意識した記述と考えられる。当該作も、管下の青年が死の間際に親を思い遣ったことを、都へ報ずる意図もあった、と推察される。その意味で契沖『万葉代匠記』(初稿本)が、日本書紀・景行天皇条の、日本武尊が死に臨んで父天皇を慕う叙述を挙げていることは顧慮される。国家を統治する側から、親が子を思う慈愛、子が親を思う孝の精神が宣揚され、憶良は倭歌の形でその要請に応えた、と推察される。
 憶良が部下である陽春の短歌二首に対し、序と長歌・短歌五首からなる大作を成した点も問題とされてきたが、国司である憶良が、官人が民を思い遣る作を作ったことを理想的な治のあり方として重んじ、それ故陽春の作を前置し、自作を、都に示すべき作に「敬和」するものとして掲げた、と考えられよう。本発表では、国司としての創作、という観点から、熊凝の作品を捉え直し、考察する。


新出 静嘉堂文庫所蔵 中山信名自筆「常陸国風土記」写本の基礎的考察―群書類従本底本の出現―

 東京都の静嘉堂文庫に、中山信名自筆の『常陸国誌』稿本六十巻と付録二巻の計六十二冊の写本が所蔵されている(色川三中旧蔵資料)。その最終巻六十二冊目に、常陸国風土記の写本が存在することを確認した。その簡単な書誌を次に紹介する。
袋綴、渋横引き表紙(後付表紙)、縦二十七・五センチ×横十九・一センチ、外題「國誌附尾 常陸風土記 完」内表紙「風土記 太田文 新編常陸誌附尾」、墨付き一丁表に内題「新編常陸國誌附尾巻之一/隅東柳洲/中山信名平四 修/古書部第一/目録/常陸風土記和銅中撰/常陸太田文弘安中成」とある。墨付二十四丁。常陸国風土記は二丁表から十九丁裏まで。字詰めは十行・二十字。
『国書総目録』には、この「国誌附尾 常陸国風土記」(外題による)の名は、「常陸国誌」の項目にも「常陸風土記」の項目にも見えない。ただし、静嘉堂文庫には他にも中山信名自筆の常陸国風土記の写本一本が存在している。それについては飯田瑞穂の詳しい調査があり(「『常陸風土記』の諸本について」、『古代史籍の研究 上』、飯田瑞穂著作集2所収、吉川弘文館刊、二〇〇〇年五月)、今回取り上げる「国誌附尾本常陸国風土記」とは別本であることが確認できる。以上の状況を総合的に判断して、この写本はこれまで知られていなかった常陸国風土記の一写本であると判断される。 本発表では、この新出写本に関する基礎的考察として、
(1)既存の中山信名写本との関係
(2)群書類従本「常陸国風土記」との関係
について考察したいと思う。新出写本は既存本の書入れを多く本文に採用しており、さらにそれを含めて群書類従本系諸本特有の本文と一致する箇所を多く含む。群書類従本は中山信名本を転写したものであることが奥書に明記されており、新出「国誌附尾本常陸国風土記」は、これまでその存在が明らかでなかった、群書類従本の底本であることにほぼ間違いない。





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 【お問合せ】上代文学会事務局
 〒112-8681 東京都文京区目白台2-8-1
 日本女子大学文学部日本文学科中央研究室内
 Eメール jimukyoku@jodaibungakukai.org

 ※2021・2022年度(2022年3月31日迄)


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