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令和7年度大会も対面/オンライン併用で開催いたします。皆様のご参加をお待ちしております。
なお、状況によりましては、全面オンラインとなる場合もあります。その他詳細はHPで最新情報をご確認下さい。



令和7年度上代文学会 大会案内
期  日 令和7年5月17日(土)、18日(日)、19日(月)
会  場 駒澤大学(駒沢キャンパス)
  東京都世田谷区駒沢1-23-1
  東急田園都市線「駒沢大学」駅を下車、徒歩10分。
  または東急田園都市線「桜新町」駅を下車、徒歩20分。
  バス利用の場合、「渋谷」駅(JR線・東急田園都市線等)より東急バス
  「渋82系統等々力行き(23番乗り場)」から「駒沢」停留所を下車、徒歩1分。
  または 「二子玉川」駅(東急田園都市線)より東急バス「玉12系統
  駒沢大学駅行き(1番乗り場)」から「駒沢」停留所を下車、徒歩4分。
  ※会場校へのアクセスにつきましては、以下をご参照ください。
  https://www.komazawa-u.ac.jp/access/
日  程 (懇親会を除き全てオンライン併用で行います)
※当日の進行によって、時間が前後する場合がございます。
― 17日(土) ―
理事会 (午後0時30分~1時30分)
講演会 (午後2時~4時30分)駒澤大学 記念講堂

学会挨拶 挨 拶 万葉集のこれから 和語になった漢訳仏典の用語について
上代文学会賞贈呈式 (午後4時30分~4時40分)
総会 (午後4時50分~5時30分)
懇親会 駒澤大学深沢キャンパス 洋館大ホール(午後6時~)
18日(日)
研究発表会 (午前9時30分~午後4時30分)駒澤大学 3号館207教室
《午前の部》(午前9時30分~)

皇子の「猪狩り」失敗説話の意味─狩りと即位の関連性─

『古事記』葦原中国平定神話の問答の構造―敬意の変化に着目して―

――休 憩――(午前11時10分~11時20分)

『古事記』火神被殺神話における山津見神の出現と迦具土神の死の描写

――休 憩――

《午後の部》(午後1時~)

荘厳される歌垣
―『常陸国風土記』筑波郡条における祖神尊の唱え言に着目して―

近世前期における神話の流通と神仏習合批判
―『本朝神社考』と『先代旧事本紀大成経』―

――休 憩――(午後2時40分~2時50分)

天平元年の葛城王と薩妙観命婦の贈答歌の性質

『出雲国風土記』の黄泉之坂・黄泉之穴について

19日(月)
臨地研究 ※特にご案内は致しません。

☆参加申込
4月21日(月)までに、上代文学会大会参加申込フォームに入って頂き、お申し込みください。
https://forms.gle/eHhTyhZjAZPSGcnR8
大会参加費は徴収致しませんが、対面参加の方には、資料代のご負担をお願いしております。当日会場受付にて1000円をお支払いください。
また懇親会費、お弁当代の事前決済につきましては、ピーティックス(チケット決済購入サービス)のご利用をお願いしております。
http://jodai2025spr.peatix.com/
事前決済をご希望の方は、4月21日(月)までにお願いいたします。
その他詳細は、別途ご連絡の大会案内をご参照ください。

大会研究発表要旨
皇子の「猪狩り」失敗説話の意味─狩りと即位の関連性─


 『古事記』『日本書紀』『風土記』に於いては、皇族や神が狩りを行う描写が度々見られる。「天皇の狩り」の意義については、民俗学・歴史学の見地では多く論考が行われている他、石上英一氏や谷川章雄氏らにより「山野の領有権の具体化」や「鳥獣に対する天皇の所有権を示した儀礼」等、様々な考察が為されてきた。中でも「皇子の狩り」が示す意義について、上野理氏は記紀の例を通覧し、「一種の通過儀礼的な儀式や習俗の反映を見ることも、あるいは可能かもしれない」と推察している。本発表では、諸氏の論考を受け、『古事記』『日本書紀』『風土記』に於ける皇族及び神の「狩り」の描写を改めて分析し、特に皇子による「狩り」の成否と即位の有無との関連性を指摘する。
 現存『風土記』には皇子の狩猟失敗譚は見えない。天皇の狩猟失敗譚は複数あり、飯泉氏らによって国占め失敗を主張したい地方勢力の意向の表出と指摘されている。一方、『古事記』『日本書紀』両書には皇子の狩猟失敗譚が記述され、両書の「狩り」に失敗する皇子は、皇位継承に近い位置にありながら、即位することなく死んでいく共通点がある。更に、『古事記』に於いては、「狩り」の対象が「猪」で統一されている他、「狩り」に失敗する人物には、必ず「何かに気が付かない/誤って捉える」描写が存在する。中でも、オホヤマモリの説話に注目したい。この説話を、諸注は「ウケヒ」の一つであると捉えてきた。しかし、オホヤマモリの「大猪を獲れるか」という発問はウケヒの形ではなく、オホヤマモリは狩猟を行う事なく死に至る。この発問は、文脈上「無事即位できるか否か」という意を含むものと捉えるべきであり、「大猪狩り」場面は「オホヤマモリが即位できない」事の示唆を主たる目的とする描写と言えるのではなかろうか。
 ここに、『古事記』に於ける皇子の「猪狩り失敗説話」と言うべき類型が見えてくる。「狩り」と明言されないヤマトタケルのイブキヤマ説話や、神代巻のオホナムチ説話等も考え併せ、『古事記』に於いて「猪狩りに失敗する」描写が、その人物が天下を治めるのに不適格であることを示唆するものと結論付けたい。



『古事記』葦原中国平定神話の問答の構造―敬意の変化に着目して―


 一般に古典文法では、発話引用時に用いられる敬語は、地の文の書き手からの発話主体に対する敬意(尊敬語)、或いは発言を受ける者への敬意(謙譲語)を表すものである。『古事記』研究においては古賀精一が用字法における上下関係の整理を行って以降、青木周平が文体論の問題として受け継ぎ、谷口雅博は「詔」字に着目し、天つ神御子及び天皇が主体となることを指摘し、敬語研究をより精緻なものとした。
 ところが、この敬語文法が揺らぐ例がある。その一つが葦原中国平定神話における三度目の使者派遣の記事である。当該記事では、使者に対しての発話引用には基本的に「白」が使用される。しかし建御雷神に対する建御名方神の発話においては、「言」の場合と「白」の場合とがある。本発表はこの事例における使い分けを起点とし、これを含む国土献上の問答の性質を敬語表現から読み解くものである。
 論証においては『古事記』内の敬語一般の法則が揺らぐ例について比較と検討を行う。その分析によれば、発話者にとっての言葉の受け手の尊卑・上下の認識の変化に沿って地の文の敬意が変化し、同調していることが分かる。つまり『古事記』は書記の過程を経ることで、結果として登場人物自らが相対的な位置取りをするような記述構成を持つのである。
 当該記事に返って考えると、建御名方神の発話引用の「言」から「白」への変化は、物語の展開に従って地の文に敬意が用いられることで、あたかも建御名方神が敬意を払うように変化したようにみえることになる。所謂「書き手からの敬意」というものは存在しないという視座に立つことで、当該記事内におけるもう一例の「言」の用例についても読み解くことが可能となる。『古事記』では父に対する子(娘)の発話引用には敬意が用いられるが、「父大神」である大国主神に対する子の事代主神の発話は敬意のない「言」で引用されるのである。これもまた人物の関係を人物自身が認識するかのように構築された結果によるものである。右の論証に基づき、当該記事の問答全体が地の文と発話文を融合させる性質を持つことを明らかにする。



『古事記』火神被殺神話における山津見神の出現と迦具土神の死の描写


 『古事記』における火神被殺神話では、迦具土神の血に建御雷神等が現れ、死体に八柱の山津見神が出現する。この神話後半については、尾崎暢殃『古事記全講』が「火神の死体の各部から八種の山津見の神の出現する一条は、これを除いても説話の進行には関係がない」と指摘するように、前後の文脈に関係がないようにもみえる。しかし、当該神話に続く黄泉国神話では、伊耶那岐命が伊耶那美命に国を作り終えていないから帰還するように述べている。この神による国作りの途上にある神話であることから、その流れに即して捉えるべきだろう。
 本発表では、伊耶那岐命の国作りという視点を念頭に置きつつ、火神被殺神話の後半について考察する。
 当該神話は伊耶那岐命が刀剣で迦具土神の首を斬ることから始まり、最後にその刀剣名を記す構成を鑑みると、全体的に伊耶那岐命の刀剣との関わりが強く、刀剣によって神々が現出せしめられたとみられる。しかし、前半の神々は「御刀に因りて生める神」とあって伊耶那岐命の子に位置付けられ、後半の山津見神と区別されているため、前後半には異なる意義があると考えられる。
 後半の神々は全て「山津見」である。『古事記』に山の神は多く登場するが、「山津見」は当該の他に大山津見神のみである。新編日本古典文学全集『古事記』は、すでに大山津見神が登場することから「山の神の重複ということになるが、未詳」と指摘しているが、ここは大山津見神のイメージを重ねる意図があるのではないだろうか。
 大山津見神は野椎神とともに、神を生むために「山・野に因りて持ち別けて」おり、伊耶那岐命・伊耶那美命の神生みを補助した存在である。伊耶那美命を神避らせ、国作りを阻害した迦具土神とは反対に位置する神といえる。八柱の神も「山津見」であることから、同様の立ち位置を想定できると思われる。
 つまり、伊耶那岐命は国作りのために刀剣の霊威を借り、迦具土神の死体に自らを補助する「山津見」神を出現させたのだと考えられる。



荘厳される歌垣
  ―『常陸国風土記』筑波郡条における祖神尊の唱え言に着目して―



 発表者は先だって『常陸国風土記』筑波郡条について考察し(古代文学会2024年9月例会)、孝子説話を志向する当該テキストにおいて祖神尊は「祖先」の印象を揺曳させつつ、敬うべき「親」として振る舞っていると述べた。本発表ではその結論を踏まえ、先には触れえなかった祖神尊による四字句の詞章を検討し、後続する歌垣記事との連続性を考察する。
 筑波神への讃辞が四字句に揃えられている意味についてはこれまで問われてこなかった。先行研究では、元は和語による歌謡だったことを示すよすがといった程度にしか見られていないが、それなら五言や七言でも良かったのではないか。「四言詩」(大系など)とも言われるが、これは「詩」なのかということも考えねばならない。四言詩は『詩経』以前からの伝統を持つが、古代日本では詠まれなかったからである。
 古代日本において四言形式を有するのは『日本霊異記』の賛や各種の碑・銘・誄などである。多くは「散文序+韻文」の組み合わせであり、ある存在を讃える伝記的内容を持つ。これは、当該テキストが「大歳の客型の散文+韻文の讃辞」であるのと相似する。賛・碑・銘・誄に看取される高度な儀礼性を、祖神尊の唱え言は付与されていると考えるべきだろう。この推測は、詔勅や上奏に顕著である「天地」「日月」の比喩表現を当該詞章が有していることにより裏付けられる。これまで民間歌謡の残滓とされてきた祖神尊の詞章は、過剰なほど荘厳されていたのである。このことにつき、発表者は以下のような見通しを持つ。当該テキストが後続記事に描かれる歌垣の起源となることは諸注の指摘する通りだが、男女が近く交わる歌垣の猥雑さが、儒教道徳の許容しないものであったことに注意を要する。四言形式や「天地」「日月」の比喩、筑波神の高徳の表現(「巍」)などによって、地方の「蛮俗」を正当化することに祖神尊の唱え言の意義があるのではないか、ということである。



近世前期における神話の流通と神仏習合批判
  ――『本朝神社考』と『先代旧事本紀大成経』――



 出版文化が発展した近世には、神話のあり方も大きな変化を迎える。『日本書紀』『古事記』『先代旧事本紀』といった神話テキストも版本として刊行され、限られた層以外の人々でも『日本書紀』などを手に取ることが可能になった。ただし、近世において神話が受容される際、それが必ずしも常に『日本書紀』などそのものによってなされていたとは限らない。人々は二次的な媒体によっても神話に触れ、そしてそこで神話に付随する新たな意味付けをも摂取する。本発表では、そうした新たな意味付けを帯びた神話を人々に提供した神話テキストとして、林羅山『本朝神社考』とそれに関連する文献群、および『先代旧事本紀大成経』に注目する。
 『本朝神社考』(寛永十五年(一六三八)~正保二年(一六四五)頃刊)は、日本各地の神社の由緒を『日本書紀』などからの引用によって説明した出版物であり、その内容は後続の神社解説書、地誌、名所図会などに影響を与えた。神話を掲載するテキストとして特に『本朝神社考』が特徴的なのは、排仏思想(神仏習合批判)を前面に押し出している点である。羅山の著書を起点として、初めて神話が本格的に神仏習合批判の文脈を帯びながら流通し始めたのである(同様の神仏習合批判の神社解説書に、白井宗因『神社啓蒙』(寛文十年(一六七〇)刊)、坂内直頼『本朝諸社一覧』(貞享二年(一六八五)刊)がある)。
 他方で、十七世紀には排仏とは正反対の「神儒仏三教一致」を説く神話テキスト『先代旧事本紀大成経』(寛文十年(一六七〇)・延宝七年(一六七九)刊)も登場する。聖徳太子真撰の神典と称された『大成経』は、発禁処分となりながらも仏教界を中心として長く珍重されていくこととなるが、その『大成経』の内容は『本朝神社考』的な排仏論・聖徳太子批判・考証主義への対抗言説としても取り扱われた。この神仏習合批判と三教一致思想のせめぎ合いの中にあるものとして、本発表では近世前期の神話を捉える。



天平元年の葛城王と薩妙観命婦の贈答歌の性質


 『万葉集』巻二十の歌は、概ね天平勝宝五年〈七五三年〉から天平宝字三年〈七五九年〉正月一日までの順に配列されている。その中でも、「天平元年の班田の時に、使葛城王(橘諸兄―引用者注)、山背国より薩妙観命婦等の所に贈りし歌」(四四五五番歌)と「薩妙観命婦の報へ贈る歌」(四四五六番歌)〔以下、当該贈答作品とする〕は、(天平勝宝七歳〈七五五年〉―発表者注)十一月二十八日の歌(四四五四番歌)と天平勝宝八歳〈七五六年〉二月の歌群(四四五七番歌~四四六四番歌)の間に位置する。
 橘諸兄が、当該贈答作品を伝誦した経緯について、『全歌講義』は、「薩妙観が後々まで元正太上天皇によく仕えた命婦であったことも、諸兄がこの思い出を大切にしてきた理由のひとつであったかもしれない」と推察する。また、山崎健司氏「萬葉集巻第二十の編纂をめぐって」(『萬葉集研究』第二十七集、塙書房、二〇〇五年六月/『大伴家持の歌群と編纂』塙書房、二〇一〇年一月所収)は、「天平勝宝七歳十一月の宴において偶然披露されたもの」と論じる。
 一方、土佐秀里氏「天平元年の班田と万葉集―律令官人の言説と制度―」『國學院雑誌』一一八巻八号、二〇一七年八月/『律令国家と言語文化』汲古書院、二〇二〇年二月所収)は、「勝宝七歳がまさしく六年一度の班年であったからである」と指摘する。班田年に着目した土佐氏の指摘は重要である。そこで本発表では、改めて班田年と当該贈答作品の関わりに着目したうえで、当該贈答作品の性質を検討する。さらにその性質は、当該贈答作品の前に位置する四四五四番歌「(天平勝宝七歳―発表者注)十一月二十八日に、左大臣、兵部卿橘奈良麻呂朝臣の宅に集へて宴する歌」と関連して考えることで機能を果たすのであり、有機的に繋がるということを論じる。



出雲国風土記』の黄泉之坂・黄泉之穴について


 本発表では、『出雲国風土記』出雲郡宇賀郷脳礒条の黄泉之坂・黄泉之穴をとりあげる。
 黄泉比良坂について、『古事記』は出雲国の伊賦夜坂だと断じる。『日本書紀』でも言屋社に狗が死人の手臂を置いたのが斉明帝崩御の凶兆とされ、この地に死の影が落とされる。
 ところが、イフヤの地をめぐり、『出雲国風土記』は同名を冠する社の存在を記すのみである。確かに、イフヤは名称起源譚を記す郡郷名のような次元の地名でない。ただし、それは脳礒とて同じである。また、『出雲国風土記』は海浜に関わる事柄を郡毎に一括して紹介する。しかし、脳礒のある浜は宇賀郷の名称起源譚に続けて記される。
 右のように、『出雲国風土記』は脳磯条をめぐり異例な措置をとる。これは、黄泉の俗信を持つ脳礒が宇賀に存在することを、同地が出雲郡に所属すること以上に強調したかったためである。注目したいのが、大穴牟遅が湏佐能男の許から逃走する『古事記』の話である。ここでは黄泉比良坂が舞台になる。さらに、湏佐能男は大穴牟遅に宮の造営を命じるが、その際に宇迦能山之山本を指定する。『古事記』は宇迦能山を黄泉比良坂だと述べはしない。しかし、黄泉比良坂が関わる話で宇迦が呼び起こされる点と、宇賀の地の黄泉之坂に触れる点との関係を探るのも、無駄な試みではあるまい。発表者は、『出雲国風土記』が『古事記』を意識したという立場をとる。
 諸氏の指摘する通り、伊耶那美の埋葬地を雲伯国境とする『古事記』からは、出雲を黄泉と重ね合わせる意図が読みとれる。『出雲国風土記』はこれを嫌ったのではなかろうか。黄泉比良坂をイフヤからウカへ移すことで、黄泉との接点は、出雲の中でも都に近い東部より都から遠い島根半島北西部へと変更される。その結果、黄泉は都から出雲を経たその先に広がるように説明できる余地が生まれ、出雲が黄泉と重なり合う印象を払拭できる。
 以上のように、本発表では、『出雲国風土記』が『古事記』を意識したという立場から脳礒条を論じていく。





注意事項 ・ お問合せ先


【お問合せ】上代文学会事務局
〒162-8644
東京都新宿区戸山1-24-1
早稲田大学文学学術院2504研究室内
上代文学会事務局
Eメール jimukyoku@jodaibungakukai.org
※※2023・2024年度(2025年3月31日迄)


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